その大きな黒い瞳が真っ直ぐに僕を見据えていた。 見る限り誰もいない…と、なれば 話は数分前にさかのぼる。放課後の学校。校庭からは運動部の混ざり合う掛け声。上階からは合唱部のコーラス。下階からはカンカンと美術部の金属をかなづちで叩く音、気の削れる音。部活動で活発な上下と反対に静まり返った校舎の中層部。ほんの少ししか残っていない生徒。窓の外に見える西に傾きかけている太陽。誰も居ない廊下。僕はその廊下を、一番上の紙が顎につきそうなくらいに大量のプリントを抱えて歩いていた。学級委員として、担任に呼ばれたのだ。職員室に行ってみれば大量のプリントを渡されそのまま教室に逆戻りの指示を出された。所詮、学級委員なんて担任付きの雑用と同じである。こんな仕事に僕は少なからずうんざりしていたが、担任の信頼だけでなくクラスからの人望も買っていることから、いやとは言えなかった。うんざりはするが、面倒なだけでたいした仕事ではない。それで多くの信頼を得られるのなら、まぁ妥当であろう。 両の腕と顎でプリントを挟みながら一歩ずつ階段を上る。これだけ多くのプリントを抱えていると、前は見えるが足元は見えない。横目に見える段数を数えながら上がっていた。 あと数段に差し掛かった時、遠くからパタパタと人の走る音が聞こえてきた。咄嗟にいやな予感がよぎる。その事態を避けるにはどうしたらいいか。僕の脳は瞬時に大量のシミュレーションを繰り返したが、どれも避けられるものは無かった。だとすれば僕がすべきことはこれだけだろう。覚悟を決める。 パタパタとせわしく叫ぶ足音はもう目前だった。 トンッ 軽い衝撃がプリント越しに伝わる。やはり僕の予感は正しかった。ただ、その衝撃が思っていたよりも遥かに軽かったことを除いては。 衝撃で少し身体が傾き、プリントがふわりと宙に舞うのが見えた。予想済みのことである。だから僕は驚きもせず、焦りもしなかった。バサバサと音を立てて勢い良く崩れ落ちるプリントの山を、僕はただ収まるまで見つめていた。落ちるだけ落ちたらいいと思っていた。どうせ何枚落ちようが後で拾うことになるのは同じなのだから。そのせいかやけに冷静で、余裕があり、その落ちる様を紅葉の散る様のように美しく感じた。 「ごめんなさい!」 一瞬のうちに僕はいろいろなことを考えていたらしい。散らばったプリントを見るのが早かったか、彼女が言葉を発するのが早かったか。足音の正体、ぶつかってきた本人はよく見知った女子生徒だった。 「**?」 「え?」 名前を呼ぶと意外と言うように瞑っていた瞳を開き、おずおずと見上げてくる。怒鳴られるとでも思っていたのだろうか。 「どうしたんです、そんなに急いで。転んだら危ないですよ」 「観月くんだったの?・・・良かったぁ」 僕の姿を確認した途端、緊張の糸を緩め明らかな安堵のため息を漏らす。それからふんわりと微笑う。僕に、そうしてくれることが嬉しかった。 「外に。窓から大事なもの落としちゃって」 「それを取りに、ですか」 「そう」 「じゃあ僕も手伝いましょうか」 散らばったプリントを二人かき集めながら交わされる他愛も無い会話。普段となんら変わらない彼女の口調。教室でも、廊下でも、帰り道でも、二人きりでも。 僕たちは一応、恋人同士である。まだ日は浅いが、互いに想い合っている存在である。それなのに彼女は、以前と態度は全く変わらないし、口調や仕草も変わらず、唯一変わったことと言えば、たまに一緒に帰ることがあるくらいだ。一方僕のほうと言えば、それまで「**さん」と呼んでいたのを「**」に改め、メールや電話をかけるようになり、それまでの一線を消した。だが彼女はまるで変わらないのである。互いに同意の上での交際だが、彼女が僕を好いているのかは甚だ疑問であった。 「え!」 「だから、探すの手伝いましょうか、と」 「い、いい!大丈夫、わたし一人で探せる」 「・・・僕に見られちゃ困るものでも?」 僕としてはカマをかけたつもりだった。しかし彼女は僕のその一言に、一瞬にして耳まで赤く染め上げたのだ。恋人である僕に見られては困るものなど、他の男に関連するものしか思い浮かばなかった。それに加えて以前からの疑問。無性に腹立たしかった。 かき集めたプリントを僕の腕の中に、彼女は何の疑いも無い純粋な笑顔で載せる。ただ「本当ごめんね」と一言残して。 ダンッ その場を立ち去ろうとする彼女を、壁に追い詰めた。壁に激しく打ち付けた右の拳が熱い。押しやられた彼女は一瞬何が起こったのかわからないというような表情をしていたが、次第に恐怖の色をその整った顔に表した。 「・・・ごめんなさい、そんなに怒ったの?本当にごめんなさい」 勘違いしている彼女にも余計腹が立つ。こんなくだらないことで愛おしい人に腹を立てる男が世界にどれだけ居ると思っているのか。 「・・・そんなこと気にしていませんよ」 「じゃあどうして・・・」 彼女の目尻にはじんわりと涙が浮かんでいた。愛しい女を泣かせるなんてなんて最低な男だろう。僕は自分自身にあきれた。 ふぅと大きく息をつく。冷静にならなければならないと思った。 「観月くん・・・?」 目尻に涙を貯めたままそれを必死にこぼさないよう堪えながら、それでも彼女は僕を伺うように名前を呼んだ。その大きな黒い瞳が真っ直ぐに僕を見据えていた。そんな姿を見たらなんだか腹を立てている自分が馬鹿らしくなってしまった。彼女が涙をためているのも、それをこぼさないよう堪えているのも、それが僕だからだということくらいはわかっていた。 ふっと笑みをこぼし、 「**」 「何?」 「僕の名前を呼ぶときは、そうじゃないでしょう?」 多分今の僕はまるで小さな子供をからかう悪い大人のような顔をしているのだろう。それでも彼女の引っ込んだ涙と耳まで染まる姿を見れば、それでも良いと思えてしまう。 「何でしたっけ?」 「・・・・・・」 「忘れてしまいました?」 「忘れてない・・・です」 「ではどうぞ」 「・・・・・・はじめ」 俯いて聞こえるか聞こえないかくらいに小さな声でぽそりとつぶやく。 「よくできました」 彼女は俯くだけじゃ治まらなかったのか、俯いた顔を更に横へ逸らした。それを阻むように僕は彼女の顎を掬い上げる。唐突のことだったので彼女は驚いたように目を見開いていた。顔中を真っ赤に染めて。 「ちょ・・・観月くん?!」 「ねぇ、**。僕たちは仮にも恋人同士ですよね?」 手のひら一つ分だけ距離を置いて見つめる瞳。彼女の瞳に写った僕は、それは性質の悪そうな笑みを浮かべていた。きっと僕の瞳の中にも驚いたような困ったような彼女自身が写っているだろう。 「恋人、って、どういうことか知っています?」 彼女の全身が強張るのを感じた。でもそれが悪い意味で強張ったわけではないこともわかった。口角が自然と上がる。 「恋人同士がこの距離、さらに、見る限り誰もいない・・・と、なれば」 答えを口にすることは無かった。言葉に乗せる前に僕は実行した。 ぎゅっと力をこめて目を閉じる彼女に笑いを漏らしながら、その桃色の唇を捉えた。滑らかな輪郭。重なる吐息。マシュマロのような唇。僕は彼女と触れるすべての部分から、彼女自身を捉えようとした。 そっと離れる唇。ただ触れただけのキスだというのに、彼女は全身真っ赤に染まっていた。思わず笑いが漏れる。 「・・・すくすくす」 「・・・」 「大切なもの、取りに行かなくていいんですか」 僕が忠告すると彼女ははっと驚き、青ざめ、紅潮し、 「ご、ごめん!」 そういって階段を駆け下りていった。途中、足音を乱しながら。 後日、落とした大切なものは、実は僕の隠し撮り写真だったということを知り、はなはだ僕も馬鹿だと反省した。 |