「ね、地元に帰るって言ったら、はじめどうする?」
「は?」


ちょっと顔をしかめて、それでも彼にしては珍しいくらいの間抜け顔。わたしの言葉はそんなにも想定外だったのだろうか。


「今、何て言いました?」
「地元に帰るかもって」
「…いきなりどうしたんです?」


空から槍と同じくらいに信じられないという表情を浮かべて、読んでいた英書を閉じた。彼が手放しにわたしと向き合うことは、久々のような気がした。不謹慎ながら少しうれしくなる。


「就職。地元で呼ばれたの」
「こちらのはどうしたんです?行きたいと言っていたでしょう」
「その会社の支店なの」


丸く見開いた瞳は少しの間のあと、静かに平静を取り戻した。長い指先が再び古びた英書のページを繰る。沈黙の中に時計の秒針の進む音だけが、カチカチとまるでカウントダウンのように響いていた。

ふと、文字列を追う視線が止まった。


「何を迷うことがあるのです」


直接口にしたわけではないが、彼にはもうわたしの迷いが見え透いていた。

核心を突かれて揺らぐ心が崩れそうになる。それを必死に押し留め、涙と一緒に飲み込んだ。


「だっ…て、会えなく…なっちゃうんだよ?」


やっとの思いで口にしたけれど、震える唇では途切れ途切れにしか言葉に出来なかった。


「だから?」
「…はじめはそれでいいの…?」


ぽろり、涙がこぼれた。せき止められなくなった感情が次々に溢れて涙に変わる。胸の奥の奥でくすぶっていた様々な感情が、一気に溢れだし、混ざりあい、ぐちゃぐちゃになった。


「何かいけないことでもあるんですか」


素っ気ない対応に、余計に涙がこぼれた。

何年も付き合って来て、この3年は共に暮らしてきたけれど、彼にとってはわたしの存在など小さなものだったようだ。わたしにとっては、将来を迷うほどに大きな存在であると言うのに。悲しさからまた涙がこぼれた。


「はじめにとってはそんなもんだったんだね。…もう別れよっか」


自ら口にしてはみたものの、言葉の威力とは大きなもので、頭の中で考えているよりも遥かに鋭い刃となって、胸に突き刺さった。わかっている。別れようと言われたって、別れることなど出来ない。醜く泣いてすがってでも、離れたくない。ずっとずっと、彼しか見ていなかった。わたしの中には彼しかいないのだ。

ぐずぐず嗚咽を溢していると、呆れたようなため息。このまま「そうですね、別れましょう」なんて言われるのではないかと、緊張に身体が強ばった。


「**。あなた勘違いしているみたいですけど、」


軽い咳払いに、ぐしゃぐしゃになった顔を上げた。冷めたような、それでもその奥に温かさを感じる真っ直ぐな瞳に捕らえられる。


「離れることに問題はないとは言いましたけど、それが寂しくないとは言ってませんよ」
「…へ」
「それに別れるとも言ってません」


何故かどこか自信を含んでいる物言いに、回らない頭には疑問符が浮かんだ。


「目測を見誤るな。一生に一度しかないのなら、この機会を逃してはダメだ。君の入りたい企業なのだろう?今、大事なことを選ぶんだ」
「でも」
「少し離れたからといって、僕らの仲が崩れるとでも?」
「…」
「7年も君に付き合って来たんです。今さら距離くらい、さして問題でもないでしょう。それとも君は僕が信じられないと言うんですか?」
「…いいえ」


なんだか誘導されたような気がするけれど、それでもその力強い瞳に導かれればそのような気もしてくるもので、先程までぐちゃぐちゃだった胸の奥に風が通った。自分の足場はここなのだと認識する。口元が緩んだ。


「わかったならよろしい」
「はい。…ところではじめさん、さっきさりげなく、ものすごく失礼なこと言いませんでした?」
「おや、失敬な。僕は事実を述べたまでです」
「…余計酷い…」





雨上がりの空に小さく、虹がかかっていた。
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