きっかけは些細なことだった。





「そういえばさー、今朝の夢に、何だったかな、氷帝の…あ、跡部くんか。跡部くんが出てきてさー」


課題のノートを繰りながら何気なく呟いた一言。勿論、ただ急に思い出したから言いたかっただけで、他意はない。それでもこの言葉は彼の逆鱗に触れるには十分すぎるくらいに強力な力を持っていた。


「今何て言いました?」


じわりと滲むような低い声が鼓膜を叩く。


「え?だから今朝の夢に跡部くんが出てきたって」


ノートから目を離し、視線を投げるとそこには何を思っているのかよくわからない表情。とりあえず機嫌が悪いことだけはわかる。けれど、一体何がどうして機嫌を損ねたのかなんて全く予想もつかない。彼のことだから、またよくわからない些細なことで機嫌を損ねたのかもしれない、と、特に気にすることなく、再びノートへと視線を戻した。


「…で、何をしたんです」


一度静まった空間を破ったのは、彼の低く鋭い声。たまに甘くかすれたりもするけれど、大抵鋭く相手を射抜くような声音だ。まだ機嫌が悪いらしい。鋭さに拍車がかかったままだ。でも、そんな声音にも慣れている。慣れたかったわけではないのだけれど。


「は?なにが?」
「だから、夢の中で何をしたのです」
「ああ…えーっと、子ども産んだ」
「は?」


彼には珍しく、間の抜けた驚き混じりの声音。声色はなんとなくかわいいのに、その眉間には深く皺が刻まれている。勿論、瞳は疑いの色。


「だから夢で子ども産んでたんだってば」
「誰の」
「跡部くんの」


あ、言葉が出なくなってる。いつも引き結んでいる口が間抜けに薄く開いている。今これを写真に収めたら後々使えるかもしれない、なんてよこしまな思考が過ったけれど、目の前のきつい眼差しにそれを実行出来るわけがなかった。今そんなことをしてみたら、余計ややこしくなり収拾がつかなくなるのは経験上よくわかっていた。


「それで?」
「跡部くんが忍足くんと別れた」
「…あなたは何を言ってるんです」
「何って夢の続き。はじめが訊いたんじゃん」
「別れるって何です」
「だって、3人で付き合ってたんだもん」


そう、夢の中では跡部くんと忍足くんと3人、すごく仲が良かった。けれど出産の後に別れることになり、再会の約束を交わした。今思えば取り留めもなく可笑しな話だ。一方的に知っているとはいえ一度も話したことのない人と付き合って仲良くして、さらにはその人の子どもまで生むなんて。今目の前にこの顔でなく、下らないことで笑える気の置けない友人の顔があったら、声を立てて笑ってしまいそうなくらい。

そうぼんやりと考えていたら、突然腕を掴み、引き上げられた。力を入れる間もなく引き上げられたため、まるで人形のようにくたりとなる。地面に足を付けたと思えばきつく手を引かれる。いつにもない強い力で、彼の指が手首に食い込んでいた。


「ちょっと、はじめ!痛いってば、離して!」


抗議の声を上げるけれど、きれいに拒絶され流される。これは何を言っても無駄だろう。小さく非難を浴びせてみたけれど、案の定、きれいさっぱり無視された。

ぐっと力をこめられ、バランスを崩した先にはベッドのスプリング。バランスを崩した、というよりも、放られた、というほうが近いんじゃないだろうか。スプリングの軋む音を耳元に、その目を睨んだ。

冷めた眼差しには隠しきれない憤りが見える。起き上がる暇を与えずに覆いかぶさり、肩を押さえ付ける身体。骨張った指がきつく肩を掴んでいる。それなのに、声音は至って冷静に、溢れ返る憤りなど欠片ほども見せず、静かだ。


「…そういうの、何て言うか知ってます」
「何て言うも何も、ただの夢でしょ」
「…浮気、って言うんですよ」


耳元にささやかれた。触れる吐息は柔らかく優しいのに、その温度はひどく冷たい。


「はぁ?!ただの夢なのに何でそういう事になっちゃうわけ?!たかが夢でそんなの!」
「たかが夢?言いますね。子どもまで産んでおいて」
「そんなの、わたしの意思でどうこう出来ることじゃないでしょ!」


抗議したところで、彼の耳には届いていないのだと悟る。抵抗していた身体の力を抜いた。


「で、どうしたいの」


呆れと挑発を混ぜて問い掛けると、噛み付くようなキス。じんわり鉄の味が滲んだ。明日はリップクリームがきっと手放せない、そう思った。

離れた唇は、この状況にも関わらずふっと口角を上げ、薄く開いた。



「そんなこと、思い出せなくさせてやる」



もう一度、その唇に噛み付かれた。
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