普段は素知らぬ様子でクラスメイトの茶化すような冷やかしも軽やかに躱しているけれど、本当はとても独占欲が強くて我が儘で心配性で、計り知れないほどにわたしにぞっこん。よく言えば愛されている。悪く言えばとてつもなく面倒な人に執着されている。そう気付かせたのは些細なきっかけだった。


「なんですか、これは」


ふんわりと、青草と土の混ざった晩夏の薫りが鼻先を掠める空気の中、聞きなれた少しだけ甘いかすれた声が意識を引き戻す。ジリジリとまとわりつき離れない湿度をかき分け、静かに蝉時雨が鼓膜を叩いた。雨上がりのようなぺったりとした空間が息苦しい。


「何、って、メールだけど・・・」


口を開けばその湿度ごと飲み込んでしまいそうな感覚に眩暈を覚える。もう身体の中は、さらけだされた皮膚や呼吸からの水分摂取で、飽和状態だというのに。ブラウスの袖口まで、しんなりと通常の幾倍も柔らかなドレープを描いている。

それにもかかわらず、同じ空間に居ることを微塵も感じさせないような出で立ちで、目の前の男は渋いというよりも険しいというほうが近い表情で、わたしを見下ろしている。片手にはわたしの携帯電話をしっかりと握って。


「そういう意味ではありません。この返信は一体どういうつもりなのか、と訊いているんです」


彼の意図することがわからず、わたしは眉根を寄せて顔中に疑問符を乗せた。

彼の考えていることがわからない、そんなことはわたしにとって日常茶飯事である。彼にとってもそうらしいが。そもそも彼とわたしでは根本的なものの捉え方や思考回路がかみ合っていないらしく、お互いの思考や受け止め方が理解できないことが多々ある。わたしからしてみれば、彼の思考はあまりにも理屈ばっていて、小難しい。そんな状態であれば、相手の思考が理解できないのもおかしくはないし、それが恋人同士ともなれば日常茶飯事の出来事と化していてもなんらおかしいことはない。慣れてしまえば、ああそんなものか、この一言で流せるようになってくるから、人間の適応能力の高さには日々感心する。彼はそうもいかないみたいだけれど。


「どういうつもりも何も、ただ返信しただけだけど。何かおかしいことでもある?」


わたしが常日頃と同じように特に気に留めることもなく返せば、彼はもともといらだちを隠せずにいた声をさらに荒らげ、まるで駄々をこねる子どもを叱るようにぴしゃりと言葉を放った。


「大ありですよ!何を考えているんですか、あなたは!こんな返事の仕方がどこにありますか!」


何を考えているか、とは心外な。メール一つでなぜこんなにも彼が苛立っているのか、正直なところわたしには理解できない。怒られるほど杜撰な返信はしていないつもりだし、むしろそれなりの礼儀も持ちよせて打っている。彼の思わず遠目になってしまいそうなほどに細かな返信ではないにしろ、一般には十分通用するレベルの返事だとは思う。むしろ彼と同じだけの精度を追求する方が無茶な話だ。

わたしは眉間にしわを寄せたまま、


「なんで?別に普通の返信じゃん。何もおかしいことなんてないじゃん」


ささやかな抵抗。どうせ後々「彼の正論」に捩じ伏せられることはわかっている。いや、ねじ伏せられているのではなく、不満や抵抗を感じつつも、本当は自ら彼の正論に納められることを望んでいるのかも知れない。そう考えると、自分も他人のことは言えないな、と思う。十分、彼にぞっこんだ。


「これ、送信先が誰だかわかってます?」


自分自身に半ばあきれていると、彼が藪から棒な問いかけを投げてきた。パチリと注意が引き寄せられる。


「は?クラスメイトでしょ?何で送信先?」
「確かにクラスメイトでしょうけど。この相手は男性でしょう」
「はあ?」

まとわりつく重たい空気も吹き飛ばすほどに、突拍子もなくどっと疲れを湧き起こさせるような彼の言葉。次の台詞までどうやら予測できそうだ。吹き飛んだ飽和状態の湿気がそれ以前より重く、額にのしかかる。


「男性相手にこのようなメールを送ることが、どういうことだかわかってるんですか」


そんなわたしの様子を汲み取ってかあえて知らぬふりをしてか、彼はさも当然のごとく、お得意の「彼の正論」を紐解きはじめる。その口調は叱るような、論説するような、それでいて単なるわがままを述べている子どものような、とにもかくにも相手に否とは言わせない勢いと圧迫を連れている。彼と付き合い始めて、わたしは一体何度この彼の口述を聴き、その都度肯定の意を示し、彼の境界の内側へと足を進めてきたのだろう。もう結構なインサイドラインまで達していると思う。

あつく語っている彼の言葉と蝉時雨が相まって、がやがやと耳障りな喧騒音となる。大好きな低めの甘い声も台無しだ。水分を多いに含んでトリートメントの必要すらなさそうになった毛先を指先でくるくると弄ぶと、彼がその行為をたしなめた。


「**、あなた聞いているんですか」
「聞いてるけど。でも返信って言ったって、誘われたからそれにいいよって答えただけじゃない」
「それが問題なんですよ!」


一体何が問題だというのか。やっぱり、彼の思考は小難しい。わかりそうでわからない。


「あなた、男性が女性を外出に誘うってことがどういうことだかわかっていますか」
「でもそれわたし一人じゃないし」
「それでも!気のない女性を誘うわけがないでしょう」
「だからって気があると考えるのもどうかと思うけれど」
「その気がなくても、こんな返信を受け取ったら、その気も湧きます」
「いや、それはないでしょ」
「なぜないと言えるのです」
「なぜあると言えるの」
「あなた、こんな返信、"わたし、あなたに気があります"と言っているようなものでしょう」
「はい?え、はじめさん、もう一度よおくメールを読み返してみませんか?わたしはただ、"あ、いいね、行きたい"と打っただけなのですが」
「だから言ってるんじゃありませんか」
「それがどうして"気がある"と読めるんですか」
「僕にはそう読めます」


机の上にわざわざディスプレイが見えるように携帯電話を置き、腕を組んで心なしか少し胸を張った彼は、しれっと言い放った。どっと肩が重くなる。大きなため息が漏れそうになったが、ここで漏らしては余計ことをややこしくするだけだと思い、寸でで飲み込んだ。

どう考えたって、彼の思い込みだ。きっと相手にほんの少しでも気があったとしても、こんな返信一つで「気がある」とは思えないだろう。むしろそう取れる彼の思考回路の方がおめでたい。いつもは、厭味なほどに論理的で、理屈ばかり並べて、言い返せないほどに筋を通してくるのに、どうしてこう、たまに何の根拠もない正論を自信たっぷりにぶつけてくるのだろうか。おかげでこちらは不意打ちのボディブローの痣が絶えない。さらには、それを他の普段述べている理屈の通った論述と同様と捉えているところが、余計にたちが悪い。客観的に見れば、今彼の述べたことは論理の欠片ほどもない単なる嫉妬と心配症と我が儘の結晶であることを告げたら、彼は一体どのような顔をするだろうか。結末が恐ろしすぎて、とてもそんなことは言えないけれど。

そうしていつもわたしが折れてしまう。結局のところ、やはりわたしも彼にぞっこんなのだ。屁理屈の正論も通してしまうほどに。


「あーうん、はい、そうですね」
「なんです、その不服そうな返事は!もう少し素直に返事が出来ないんですか」
「ごめんねーわたし素直じゃないし可愛くもないので」
「・・・可愛くないとは言ってません」
「ああそう、ありがとう」
「なんですその対応は!もう少し恋人らしく対応してもいいんじゃないですか?」
「そうかもね」
「**は本当にわかっていない!」
「はいはい」
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