彼はよくわたしのことを罵る。罵る、というのは言い過ぎなのかもしれないけれど、「ばか」は日常茶飯事、もちろんそれに等しい言葉も右にならう。その他にも、世話が焼けるだの面倒ばかり引っぱり出すだの幼稚だなど、挙げていけばきりがないほどに、彼の唇にはわたしを叱咤するための言葉ばかりが眠っているらしい。そうして日ごとに繰り出される言葉に、わたしは毎回言い返すことが出来ない。最近では言い返そうとも思わない。なぜなら、言い返したところでいわゆる倍返しになって返ってくることがわかっているからだ。そもそも言葉で彼を打ち負かそうなどと考えること自体が不毛である。彼のほうがわたしよりも数倍頭の回転が速く機転も利き、武器となる言葉の根源であるボキャブラリだってわたしのものとは比べ物にならないくらい多い。つまりは、言葉で言い返したところで、それは所詮負け試合なのだ。負けるとわかっていて挑む試合ほどお粗末なものはない。加えて彼の性格からすれば、「あなたが僕を言い負かせるとでも思っていたんですか?」なんて癪に障るような言葉を投げかけられることで、試合終了のゴングが鳴ることが容易く予想される。そう予想を立て回避できるようになっただけ、わたしが利口になったことには彼にお礼を言わなければならない。数年前のわたしは何度倍返しをされても怯むことなく食いかかっていたのだ。それでも「怯まない強さ」よりも「回避する機知」のほうがよっぽど賢く労力の浪費をせずに済むということが、今のわたしにはよくわかっている。彼と付き合うには相当の体力と精神力が必要なのだ。そんな簡単なことでいちいち浪費していては身が持たない。

だから今日だって、彼の言葉を適当にかわす。



「だからあなたって人は!もう何度言ったらわかるんです」
「ごめん、忘れてた」
「忘れてた、じゃないでしょう。あなたの頭の中に入っているのはスポンジなんですか」
「あはは」
「笑って誤魔化せるとでも思ってるんですか」
「じゃあどうしたらいいんでしょうか、はじめさん」
「・・・**。あなた、ふざけてるんですか?」
「ふざけてないけど、他に言葉かないから」
「・・・」
「・・・そんなに大きくため息つかなくても」
「溜め息も吐きたくなります」
「はあ。でもそんなにいけないことだったかな?」
「・・・・・・ばか!」



じわじわと、だけど着実に募っていく彼の怒り。別にわざと沸騰させようと思っているわけではないけれど、どうしてもわたしの軽い言葉は彼の苛々を増長させてゆく。彼には申し訳ないとは思うけれど、わたしは彼の感情が高ぶることで何か害があるわけでもないから、その増長を止めようとは思わない。そして零れる一言は、もう彼の口癖かと思うほどに聞きなれた罵声。

初めのうちはそう言われるたびに傷つき、悲しさと悔しさを握りしめて一人で涙を流したこともあった。言い返せない自分の愚かさも情けなさも呪い、それでも彼を嫌いになれない自分にもはや絶望的な衝撃さえ覚えた。けれど、付き合っていく中で少しずつ彼との距離が縮まり、その罵声に込められた意味が、本当は違うことを知る。よくよく考えてみれば、そんなこと容易にわかるはずだったのだ。それにもかかわらず、ずっと気付くことをしなかったのは、わたしがその言葉をその通りの意味にしか受け取らず、あまつさえは毎度毎度飽きもせずに簡単に傷つき自らを嫌悪していたからだ。そもそも美しさを愛でる彼が、何でもないことどうでもよいことにわざわざ己の唇を汚すはずがない。よほどのことでなければ、たとえ軽口のような「ばか」という言葉でさえも、口にしないのだ。その彼がわたしに対して何度も何度も罵声を浴びせる理由はひとつしかない。



「うん、ごめんね。次からはちゃんと気をつけるから。心配してくれてありがとう」



わたしのことを想ってくれているから。わたしを心配してくれているから。そんな簡単なことに気付くのに、わたしは何年もかかってしまった。「ばか」と言えるということは、それだけ自分のことを見てくれているということでもある。自分を見ずに関心もなく、見ていたって慕うこころや心配するこころがなければ、その言葉は生まれてこないのだ。それを彼はわかっていて、わたしにずっと投げかけてきていた。わたしを見、思い、心配するからこそ、その思いは「ばか」という一言に込められて投げかけられていたのに、わたしは彼のそんな気持ちを一滴も汲み取ることなくただその言葉の厳しさに嘆いていたなんて、はたから見ればどんなに滑稽なことであるか。その事実を知ったわたしは自分の愚かさを悔やむと同時に、彼の唇を流れる言葉すべてが愛おしいものであると知ったのだ。叱咤されることですら彼の気持ちを感じて、怒られているとは分かっていても、心の底では照れくささや嬉しさが込み上げてしまう。まったく都合の良い思考回路を持ったものだ。けれど、そんな思考構造にすら感謝を覚えてしまう。



「・・・わかればいいんです」



ほら、こうしてふいと視線を逸らす仕草は彼の精一杯の照れ隠し。根底に潜む気持ちを分かってほしいと思いながら、実際に汲み取られると照れくさくなってしまうのは彼の天の邪鬼なこころが素直に受け入れることを邪魔しているから。それでもそんな天の邪鬼が愛おしい。彼だってそう思っているはずだ。わざと怒られるようなことをするわたしの曲がったこころも。なぜなら、わたしたちは正反対のようでいて、どこかとても似ている。どちらかといえば反対の要素のほうが多いから、互いにじりじりと腹を立てることのほうが多い。同調する部分というのは、本当にほんの少しだけだ。それでもそんな自分たちを互いに好いている。まったくもって、厄介で滑稽でくだらない。それでもわたしたちはそんな関係を手放せない。きっとそういうところが似ているのだと思う。苛々してばかりなのに、嫌いになれない、むしろ好いている。堂々めぐりの思考回路。


視線を逸らした彼がそのままキュッとネクタイを締め直したら、空いたその右手を取って、そのまま指を絡める。そうすれば彼はそのからまった糸を解くように、その悪態をつく唇でわたしのそれに触れるのだ。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -