ふんわり漂うジャスミンの香り。扉越しに漏れて来るシャワー音。ときおり聞こえるでたらめな鼻歌。僕は一人、ダブルベッドの上に寝そべって居る。極上のスイートルームで。

僕が何故ここに居るかは、少しさかのぼった日の夜、突然訪れた。彼女からの一通の電話。


「一等当たっちゃった!」
「は?」
「だから一等!スイートルーム一組二名!一泊二日!」
「はぁ…」


興奮した彼女から漸く聞き出すと、駅前の懸賞で見事一等を当てたらしい。そしてその賞品が一流スイートルーム一組二名、一泊二日だったのだ。ホテルは僕らの住むところから遠くもなく、電車に30分も揺られれば容易に辿り着ける場所に位置する。普段二人で出掛ける範囲内に存在しているのだ。もちろん彼女の言葉はこうだった。


「ねぇ、次の休みに行かない?デートのあとで!」


興奮しきった彼女の声からは、否定出来ない力を感じる。こうなった彼女はもう誰にも止められないことがわかっていた。


「…わかりました」


渋々ながらも二つ返事をした僕が馬鹿だった。その結果がこれである。



彼女がバスルームに入ってからもう何分が経ったろう?入り始めて30分で漸くシャワーの音が止まった。続いて聞こえる歓声と鼻歌。多分付属のバブルバスでも試したのだろう。噴いたり水面を叩いたりする音が響いて漏れる。

彼女は今きっと女性の至福の時というものを味わって居るのかも知れない。僕もそれを邪魔するつもりはない。女性が長風呂が好きなことはわかっているし、彼女は特にそうであることも知って居る。しかしいくらなんでも長すぎやしないだろうか。シャワー音がやんで早30分。つまり彼女がバスルームに姿を消してもう1時間も経って居るのだ。さすがの僕でもそろそろ痺れを切らす。

大体、デートのあとに二人きりでスイートルーム、しかも部屋はブライダル仕様だなんて、ハネムーン用に用意されたのは明らかだ。式と式の間、たまたまぽっかり空いた2日間にちょうど当たったのはわかる。けれど仮にも愛し合っている僕らなのだから、少し気の早い婚前旅行と思ったっておかしくはない。それなのに彼女と言えば恋人である僕をもう1時間も放置しているのだ。ブライダル仕様のスイートルームでダブルベッドに男一人で横たわっていることがどれだけ惨めなことか。それより、扉一枚先には一糸纏わぬ愛しい人の姿があるとわかっていて、ただ艶しい水音だけを耳にしている僕がどれだけ我慢強いか、彼女は少しくらいわかってもいい。

鼻歌がピークになったところで僕は扉を叩いた。


「**」
「なにぃ?」


明らかに不服そうな声音が大理石に反響して届く。


「何、じゃありませんよ。一体いつまで入っているつもりですか」
「良いじゃない別に。今日沢山歩いて疲れてるんだから」
「それにしたって限度というものがあるでしょう」


少しずつ言葉尻が早口にまくし立てていることはわかっていたが、自分の意思では制御出来ない。


「まだいいでしょ?」
「早く出てきなさい」
「えー」


口調さえを制御出来なかった僕の意思はいとも簡単に指先の行動を許す。ガチャリとバスルームのドアノブに手を掛けた。

不用心に鍵もかけずに入っていた彼女はシャボン越しに僕を睨む。


「ちょっと!はじめちゃんのエッチ」
「…あと10分。いいですね」


それだけ言い残すと僕は扉を勢い良く閉めた。

一体彼女が僕の心境を汲んでくれる日など来るのだろうか。

渋々上がったらしい彼女はバスルームを出て来ていきなり口を開く。


「ねぇ、そんなにわたしに早く出て来て欲しかった?そんなに待てなかったの?」
「…」


彼女がYESの返答を期待していることは明瞭だった。そんな挑発には乗るまいとあれこれ思索するが、上手い返答は見つからない。

少し近付く彼女の身体から、先程と同じジャスミンの香りがふんわりとわきたち、鼻をくすぐる。



僕は黙って彼女に口付けた。
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