「…これは一体何なんです」







襟元を手荒くはだき、掴み上げる指先。小さく、けれど大層気に食わないと言うように舌打ちする口元。氷のように冷たく鋭く見下ろす眼光。彼のこうした感情をむきだしに怒る姿は今まで何度か目にしてきたが、それはすべて自分自身ではない、他人に向けられて来たものだった。それが今、自分に向けられている。心臓が押しつぶされるかと思うような絶対的な威圧感。思わず後退りしようとすれば、これ以上下がりようのない踵が壁にぶつかりコツンと小さく鳴いた。





「…これは一体何なのかと訊いているんです」





言葉を紡がないわたしに苛ついたのか、先ほどよりも幾分怒気を増した声音が耳を叩く。その声音にも、声を紡ぐ口元の近さにも、存在そのものでさえも怖くなり、顔ごと視線を回避した。





「…口を割らないつもりですか。それなら言えないようなことだと解釈します」

「ちが…」

「なら何だと言うのです」

「…」





言葉に詰まる。きっとそれをわかっていて言葉を紡いでいる。情け、容赦などかけらも与えない。それほどに彼は怒っていた。



絶対に知られてはだめだと、こうなることは最初からわかっていたのにどうしていつも最悪の結果を導いてしまうのだろう。彼が本当はわたしではなく彼自身に腹を立てていることもわかっていた。だからこそ余計に、彼を怒らせてしまった自分が悔しくて堪らなかった。



愛しい人の手によって引き裂かれた胸元。露わになった白い肌には、くっきりと赤く、太い男の指跡が残っていた。目に入る度にあの時の嫌悪感がよみがえる。キュッと全身が強張った。


力の入った肉の上を、彼の指先がするりと撫でる。忌々しい朱の上で指先が止まると、思わずその手を撥ね除けた。



彼の動きが止まる。しんしんと流れる静寂。心音まで耳から伝わるのではないかと思う中、パチリと視線が合わさった。まるで今までの凡ての咎を見透かすような強いまなざし。支配される、そう強く感じた。





「ごめん…」





自然と口から零れた。何に対しての謝罪であったのか、もう自分にもわからなかった。すべてであったのかもしれないし、何も対象を持たなかったかもしれなかった。ただ本当に支配されたように、口をついた。



不意に彼が胸元から手を離し、わたしの両手首を掴み壁に押し付けた。咄嗟の事態に理解がついてゆかず、驚きのまま見上げればその隙に彼の頭が胸元に沈む。痛いくらいに鎖骨のくぼみを啄まれた。

唇を離した彼にわたしが言葉をつぐ前に、先手を打つように





「消毒」





有無を言わせぬ抑圧をかけて放つ。そして本当に、心の底から溢れるやり場のない感情を抑えるように歯を食いしばって、漏らした。





「…他の男に付けられた痕なんて…っ!」





彼の唇が、あんなに怒っていたのとは裏腹に、そっと優しく吸い上げ、朱の色を塗り替えてゆく。何度も何度も、その痕を舐め、吸い上げ、溶かしていった。わたしの嫌な記憶も、記録も、凡て吸い取り飲み下す。まるで自分を戒めるかのように。





「…ごめんね…」





4つの指痕を桃色に塗り替える唇にぽろりと零すと、漸く唇と共に拘束していた両の手首を解放する。パタリと両腕が落ちた。


彼は視線を逸らし、整った横顔をこちらに寄越す。表情は柔らかくウェーブした髪の陰に隠れて見えない。しかしぐっと握り締めている拳が、見えずともその顔を表していた。

全身から絞り出すように、キンと声帯まで張り詰めた身体が呟いた。





「…君に謝られたら僕がもっと惨めになるじゃないですか」





淡く掠れるトーンが鼓膜をノックする。ツンと鼻の奥が痛くなった。





「…ごめん……あっ」





謝るなと言われた直後に謝ってしまい、慌てて別の言葉を探したが他に今の気持ちを表せる言葉は見つからなかった。だからかわりにそっぽを向いている首元に手を伸ばす。そっと腕を絡ませた。





「…ごめんね…次からはちゃんと電話するから…」





耳元にキスをして軽く耳朶を噛む。

後ろで小さく溜め息をつくのが聞こえた。





「…まったくです。そうでないと僕の立場がありません」





普段と同じ口調に声音。変わらない温もりが背中に回された。





「…はじめ」

「何です」

「…ありがとう」

「…」





お互い抱き合いキスをして。
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