傾きかけた太陽の光がそっと差し込む。灯りはつけていない。まだ電灯に頼らずとも視界は遮られない。柔らかなこの陽光だけに照らされた空間が好きだ。夏の眩しい陽射しは、窓のサッシや机の縁に跳ね返り、白く目に飛び込んで来る。それは金属も木目も隔たりなく同じように反射する。まるで浄化され、基に還るようでもあった。 がらんとした教室には他に生徒はなく、時折開け放した扉から風がすり抜けるだけだ。目の前に落ち着く背中を除いては。 目の前の背中は、わたしの愛する人のそれで、綺麗にプレスされた夏服に包まれている。襟足がシャツの首元を掠め弄ぶ。緩い癖毛の毛先が陽に染まり、橙色に似た金に輝いていた。 じっと、後ろの席から背中を見つめるわたしの視線を知ってか知らずか、彼は黙々と日直日誌を書き続けている。何か話すわけでもなく真剣に書き続ける彼を、わたしはただただ待ち続けていた。もう頬杖をつく肘が痛い。 わたしはふわりと緩いウェーブを指先でさらった。柔らかい。つまめばすぐに手折れ指に馴染む。指先に巻いてみれば綺麗に螺旋を描く。放てば風になびいた。さわさわとそれは草原のように凪ぐ。 「ねぇ、はじめ」 金に光り踊る毛先を見つめたまま声をかけた。 「なんですか」 視線も寄越さず、動かす手も止めぬまま返事が返って来た。 次の言葉を言おうとしてやめる。声にしてしまうのは、なんだか惜しい気がした。 代わりにわたしは人差し指を彼の背に預ける。ゆっくりと指を滑らせた。わたしより一回り広い背を、するすると滑る軌跡が言葉を生み出す。 "すき" 平仮名で二文字、そっと残した。 指先を離すと、少し間をおいて、 「…知っています」 先程と変わらず、視線も手もわたしの掌にはない。もう一度指を滑らせる。 "スキ" 今度は片仮名で。 それでも彼は相変わらず、 「…わかっています」 つれない。そんなこと当の昔にわかっていたことだけれど。 "I love you." 「…わかってますよ」 "very much" 「…それも知っています」 "我愛称" 「…知ってます」 "je t'aime" 「…そんなこと承知の上です」 くだらない、他愛もない遊びをしている。意味の無いことだとはわかっている。けれどこの指を止めることはためらわれた。 いくつもいくつも言葉にしても足りない。こんな言葉じゃ表しきれない。それでもわたしは滑らせた。 "Ich liebe dich" 指先が彼の背を離れた。また同じように素っ気ない、適当な返事が返ってくるのだろう。 一体わたしがいくつの言葉で表せば、彼に伝わるのだろう?そう思った時だった。そっと彼が呟く。 「…もう一度」 小さく、少しだけ悔しそうな声音が含まれたそれは、わたしを驚かせる。いつの間にかペンを走らせる指はノートの一点で止まっている。嬉しさと喜びと照れくささが込み上げる。トクトクと心臓が高鳴る。キュッと、胸の奥を握られたような心地だ。自然と顔が緩み、頬が赤く染まる。 わたしはもう一度彼の背中に指をあて、 「だからね、」 "あいしてる" 「…知ってますよ」 まぶたを下ろし、振り向く彼に唇を預けた。 |