My Dearest | ナノ
My Dearest
No.26 胡蝶の逃遁



全部話しておきたいんだ


だってこれが きっと最後になるだろうから






















月の無い夜は、すっぽりと覆い尽くす様な闇が迫って来るよな圧迫感がある。
灯り取りとなる蝋燭はとても高価なもので、余程の名家である貴族しか使うことはないし、そうであっても大切に使う。
故に、いくら京の都とと言えど、宵闇は暗く恐ろしい。
意中の姫の元に通う公達でなければ、外に出ることはない刻だ。そんな夜。

軽やかな足音が闇を震わせた。

それは土を踏みしめる音ではない。
屋敷を囲む土塀に使われた瓦の上を、細く小さな足が駆けて行く。そんな音だ。

荒い息を吐く音が足音と共に零れ、残像のような白い影が闇の中で踊る。
色素の薄い髪が乱れるのも構わず、その少女は駆けていた。
浅い呼吸をしながら、時折不安げに背後を振り返える仕草。
まるで何かが迫ってくることを気にしているように。
不思議な形をした着物が意外に早い速度で走る少女の動きにバサバサと音を立てる。

不意に、彼女の背後で闇がざわりと蠢いた。はっと身を固くした少女は、瓦を蹴って宙へ跳ね上がった。

次の瞬間、今まで彼女がいた瓦に何かが降り立った。
ただ降り立ったわけではない。 “それ”は何の躊躇もなく壁に鋭い爪を振り下ろした。

轟音を上げて壊れる土塀。
路に降り立った少女はそれに見向きもしない。
いや、する余裕はない。疲労によってぼろぼろになった身体を支え、ふら付きながら立ち上がる。
噛み締めた唇から、堪えきれない吐息が漏れてしまう。

だが休んでいる暇はない。
軋むように痛む胸に気付かないふりをして再び走り出す。
しかしその行く手を遮るように、目前に鈍く輝く爪が閃く。

鼓膜を裂く様な金属音が響く。

ギリギリのところで受け止めた爪と競り合うのは、少女の華奢な手に握られた小刀。
耳障りな音をたてながらどうにか受け止めた刃は、それでも自分よりも大きな体躯の“それ”を押さえることは出来ないようで。

グルゥ、と低く鳴いたそれは、まとわりつく黒い影をぶわりと膨張させた。
勢いよく広がったそれにまるで跳ね飛ばされるように、少女の身体は何の抵抗も出来ずに吹っ飛ばされる。

まるで鞠のように転がった少女は、地面に小刀を刺すことでその動きを止めた。
勢いを殺せず、背後にある大きな川に下半身がべちゃりと落ちたが、それでもすぐに飛沫を上げて跳ね起きた。
しかしやはり無傷ではいられなかったようで、ふら付く身体からはポタポタと赤い雫が零れている。

それを見とめた“それ”は、鼻をくすぐる馨しい鉄の匂いに、うっそりと笑った。

肩で息をする少女。その体力も気力も、もう限界に近いのは目に見えて分かる。
その柔らかい肢体に爪を突き立てる時を想像しているのか、虚空に浮かぶ牙から滴る唾液。
血が止まらない腕を押さえ、少女は追い詰めようとゆっくりと迫る影に視線を向ける。

その瞳は、絶体絶命であると言うのにまるで海のように静かだ。

ジクジクと痛む傷を無視して再び小刀を構える。
その行動を最後の足掻きと捉えた影は気にした様子もなく、四肢をしならせ跳躍する。

だがその絶対的な自信が仇となった。



“影”は見逃したのだ。
少女の瞳が、蒼く輝いた事に。





一瞬の間ののち、京の都に断末魔の叫びが木霊した。















ぱちり、と目を開ける。

瞳に映るのは、締め切った部屋の暗がりだけ。
何時もであれば、戸の隙間から月の明かりが射し込んでくるというのに、新月の夜は其れさえもないせいで一層闇が深くなる。
だがぼんやりとその闇を見つめる瞳は、まるでそれを見ておらず、その先の何かを見つめているかのようにどこか虚ろだ。

その瞳が、ふっ、と下を向く。

調度横向きに横たわるこの身体。その上にした左肩にとまる、一匹の蝶。
その蝶は鮮やかな朱色を身を誇る様に、どこかうっすらと透けていて、しかし淡く輝いているようにも見える大ぶりの翅をそよそよと靡かせる。
そして、まるで生まれたてのようにどこかおぼつかない羽ばたきで、音もなく宙に飛び上がった。
まるで彼女を誘うように、部屋の中を飛ぶ蝶から視線を外さず、四肢に力を込める。
音もなく褥から立ち上がると、蝶が導くまま裸足の足で部屋を横切り何のためらいもなく妻戸を開く。
何時もは軋んで開けずらい戸が、音もなくするりと開いた。

途端に、まだ薄っすらと冷たい風が髪を薙ぐ。

やっと背中に届くまで伸びた髪が頬を擽るのに眉一つ動かさず、黙ったまま空を見上げる。
人の気配に聡いはずの神将が誰一人気づかぬ中、そっと瞳を伏せて息を吸い込む。

肌を滑る風に含まれる、微かな馨り。

懐かしくて、愛おしくて、そして心底憎い。

馨(かぐわ)しい、それ。


           ・・・・・・。


そっと唇が弧を描き、何かを呟く。

その声はとても小さくて、誰の耳にも届かないくらい微かなもの。
だがその囁きに呼応するように、彼女に寄り添う蝶は揺蕩う。

徐に、白い単衣を纏った腕が空を指す。
その指先にとまった蝶は、何かに答えるように翅を激しく羽ばたかせると、すぐに夜の空へと踊り出て行った。



その姿を見上げる顔は、何時もの姿からは想像もできない冷たい嘲笑を浮かべていて。









血のように赤く濡れそぼった瞳が、月のない宵闇に不気味な気配を纏って輝いていた。











陽炎編曲名:「拍手喝采歌合」(supercell)
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