▼踏み越える勇気
サラリと風に靡く艶やかな黒髪。
凛とした意思を秘めた瞳。
それを縁取る睫毛は長くて、鈴のような声を紡ぐ唇は赤い果実みたいに瑞々しそう。
廊下で談笑している塩中のマドンナ・高嶺ツボミを教室の端で盗み見てから、おなまえは手鏡を恨めしげに見つめた。
如何にも気弱そう…を通り越して、陰気そうな少女が色つきリップすら塗っていない唇を引き結んで険しく見返してくる。
幼少期から続けている水泳で傷んだ髪は色素が抜けてゴワついていて、とても女の子らしいとは言えない。
私に彼女くらいの容姿があれば。
私に彼女くらい堂々とできるくらいの自信があれば。
そう思いながら手鏡をポーチにしまい込み、毎朝どんなにヘアアイロンを掛けても学校につく頃にはくねりとうねる毛先を摘んでおなまえは溜息を吐いた。
「…羨むことだけいっちょまえ…」
ポツリと誰にも聞こえないように呟いて、斜め前の席を窺う。
切り揃えられた前髪が特徴的なこと以外は平々凡々としてそうな幼馴染が、ついさっきまでのおなまえのようにツボミを見ていて、心臓が縛られたような感覚がツキリと残った。
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「今日の家庭科、難しかったね」
「私もミシン苦手」
「おなまえちゃんも?同じだ」
モブが肉改部に入ったことで水泳部のおなまえは一緒に帰れる機会が増えた。
共に並んで帰路につくのも、もう数え切れない程だ。
家が近所の幼馴染というのもあって、他の女子よりは仲が良いはずだとおなまえはほくそ笑むモブの表情を見て思った。
--シゲ君の笑った顔、やっぱり好きだな
ほんの些細なことでも共感して貰えると素直に喜ぶモブにつられておなまえも顔を綻ばせる。
そこに軽やかに笑う声が少し離れた場所から届いた。
敏感におなまえは数ある声の中から"彼女"の声を聞き付けてフッと笑顔が消える。
隣を歩くモブも"彼女"の声に気が付いて其方を向いた。
おなまえの様子を知ることなく、モブの視線の先にツボミが映る。
その横顔をおなまえは一瞬くしゃりと泣き出しそうな顔で見つめてから、モブとは正反対の方を向いて脈打つ度杭が刺さるような痛みを放つ胸に気付かないふりをした。
「…そういえば、おなまえちゃんも驚いたよね?」
「……ぇ…な、何?」
「ツボミちゃん、引っ越すんだって話」
「あ…そうだね」
モブの口からツボミの名が出ると絞られているように胸が痛い。
「前は仲良かったよね」と言われても、「そうだったかな」とおなまえは苦笑いを浮かべた。
仲が良く見えたのは、きっとツボミちゃんといたらシゲ君とも遊べたからだ。
それが段々とツボミちゃんの傍にいると、ツボミちゃんのことを追うシゲ君を否が応でも目の当たりにすることになって、幼心に苦しく思ってから彼女と遊ぶのをやめた。
思えば就学前からの片思いか、と振り返っておなまえはモブを窺う。
呆れるくらいに一途だ。
だからこそ、諦めきれないのだけれど。
「…シゲ君は、ツボミちゃんのこと…まだ好きなんだよね」
質問ではない。
確認するようにそう言った。
モブはおなまえの言葉に一瞬表情を曇らせると「…告白、したよ。…フラれちゃったけど」と前を向いた。
「…え…したの?」
「うん。じゃないと…二度と言えなくなっちゃうかもしれないから」
「………」
"二度と言えなくなるかもしれない"。
モブのその言葉におなまえは黙り込んだ。
ずっとこのまま、近くで想っていられると当たり前のように思っていた。
寧ろ、告白なんかしたらそれすらも出来なくなると思い込んでいた。
でもおなまえたちはもうすぐ受験生。
進路が違って別々の学校に進学することも考えられる。
その現実を目の当たりにして、急に今日この日が終わることが怖くなった。
「僕、塾に通おうと思ってるんだ」
「…私たちも受験生になる、もんね」
「うん。まだ進路って言われてもピンとはこないんだけど…おなまえちゃんは考えてる?」
「私…どうだろう…なりたいもの…」
考えてみても、やはりこれといったものは思い浮かばなかった。
水泳はずっと続けているが、今は好きな事というよりも出来る事という意識の方が強い。
スポーツ推薦が取れるほど上手い訳でも無いし、張った肩の筋肉は女子らしい体つきとは言えない。
「まだ…わかんないかな」
「そっか。…同じだね」
互いに苦笑いを浮かべて見合う。
「でも」とおなまえは視線を落とした。
「シゲ君は勇気のある人だよ。そこは、私と違うね」
「え?」
「ずっと好きだった人に告白できたんだもん。すごいよ」
「あ…りがとう」
モブはおなまえの言葉に頬を染める。
マドンナに告白だなんてミーハーだと言う人もいるのに、素直にモブの行動を称えるおなまえの悲しそうな笑顔がモブの瞳に写った。
「…おなまえ、ちゃん?」
「………」
きゅっと閉められたおなまえの口が僅かに震えたが、それは開かれることなくおなまえは静かに首を横に振った。
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その日から、何となくおなまえはモブを避けていた。
勇気を出してツボミに告白したモブが、フラれても尚想いを寄せたままなのだと隣で彼の表情を見て気がついてしまったから。
好きだと口にする勇気すら持てない自分が側にいるのは、おこがましいことのように感じてしまった。
勇気ある人の隣にいるのは、同じように勇気を出した人でないといけない、そんな気がして。
「…卑屈だ…本当に…」
自分のひねくれた性格に嫌気がさしておなまえは昼休みに人気のない校舎と体育館を繋ぐ通路の脇で時間を潰していた。
このうねった髪のように性根がねじ曲がっているに違いない、とおなまえが自分の髪をひと房取り見つめていると。
「何の話?」
凛とした声がすぐ側で聞こえて顔を上げた。
そこにはツボミがいて、取り巻きの子はいなかった。
ツボミはおなまえの隣に両肘を着くと、頬杖をついて「髪のこと?今の」と更に問う。
「…ううん。髪は…もう諦めたよ」
「ふーん。……」
「……」
沈黙が続くのに、ツボミはおなまえの隣から動こうとしない。
何か用かと尋ねようとしたタイミングでツボミが切り出す。
「私の髪ね、剛毛なの。コテで巻いても、三つ編みして寝ても、全然癖つかなくて」
「…そうなんだ」
「だから、私は好きだよ。おなまえちゃんのその髪」
「……ありがとう。…でも…、私は好きじゃない、この髪」
「何で?」
ツボミの言葉に面食らいながらも、おなまえはピンと引っ張った毛先から指を離す。
伸ばされていた毛束はすぐにくるんと縮んでふわりと広がった。
「プールの水で傷んでるし、ヘアオイルつけても纏まらないし、伸ばしても伸ばしてもこうなっちゃうし…それに……」
「……」
「……ツボミちゃん、みたいじゃないから」
モブ君が好きなツボミちゃんのようになれない。
だからこの髪が大っ嫌い。
「もし、おなまえちゃんが私みたいだったら、どうしてた?」
「どう…?」
「私たち、ずっと親友でいられるかな」
「……」
もし、自分の髪が綺麗な黒髪で、しなやかなストレートヘアーだったら。
そうだったら、シゲ君は私の方を好きになってくれただろうか。
そうしたら、ツボミちゃんを避けることもなかったかな。
おなまえは考えて、そうしてから「…ごめん」と呟いた。
ツボミは黙って外を見たままその声を聞いている。
「八つ当たりで、避けてて、ごめん」
「…八つ当たりなんだ?」
クスリとツボミが笑う。
気分を害した様子はなく、そんなツボミをチラッと見てからおなまえは口を開いた。
「シゲ君がツボミちゃんを好きだから。私がツボミちゃんだったらって、そう思ってた。…今でもちょっと思ってる」
「へぇー。…知ってたけど。やっぱりそうだったんだ」
「うん。ごめん」
「別に。どうしようもなかったのがわかっただけいいよ」
「私が何かした、とかだったら嫌だなって思っただけだから」とツボミはおなまえの方を向いた。
横顔も然ることながら、正面から見るとやはり美人だなと再認識しておなまえは眉を下げる。
「ちなみにさ。モブ君、この間告白されたよ」
「…知ってる。フッたんでしょ」
「聞いたの?」
「シゲ君がそう言ってた」
「話してたんだ……理由聞いた?」
「…?聞いてないけど。何で?」
フッた本人が何でその理由を聞こうとするのかとおなまえは首を傾げる。
ツボミは「聞いてないんだ」と目を丸くしていて、二人して疑問符を浮かべた。
そこに予鈴が鳴り、二人は教室へと並んで歩き出す。
「…告白しないの?」
「フラれるのわかっててする勇気ないよ」
「私みたいな見た目だったらしてた?」
「……しない。けど、今よりはしようと思ってたと思うよ」
「何それ」とツボミは笑う。
「でも仮に私とおなまえちゃんの立場が入れ替わってたら」
「……」
「私は引っ越しちゃうから、モブ君の側にはいられないよ」
「…うん」
「…ま!もしの話で現実じゃないけどね。頑張りなって」
教室のドアを開け、ツボミがヒラヒラと手を振る。
それに応えると、ツボミに続いておなまえも自分の教室に入った。
"モブ君の側にはいられないよ"。
ツボミの言葉が刺すようにおなまえの耳に残った。
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結局ツボミの言葉が気になりながらも、モブに声を掛けることが出来ないままおなまえは家に着いてしまった。
自分の部屋で鞄を置いてスカーフに手を掛けると、「着替えたら手伝ってー」と階下から母親の声がする。
制服をハンガーに掛けて適当に引っ張り出したTシャツに袖を通した後、ショートパンツを履いて階段を降りた。
階段から一階廊下に置かれた電話が目に入って足を止める。
「……」
気が付けば電話を見つめたままその前に立っていた。
ドクリと強く脈打つ鼓動と相反して、指先はしっかりとダイヤルを押す。
小さい頃はしょっちゅう遊ぶ約束を交わしに掛け合った電話番号を未だに覚えていることに顔に熱が集まってきた。
耳元に響く電子音に下唇を食んで繋がるのを待つ。
「…はい、影山です」
「あ、あの。夕飯時にすみません、みょうじです」
耳元に届いた少し低めの声にドキリとする。
少なくとも、おばさんではないことは確かだと思いながら「茂夫君、今大丈夫ですか?」と意を決して告げた。
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「ビックリしたよ、急に呼ばれたから…」
「ごめんね、お夕飯の時間に…」
「ううん。母さんたちも驚いてたけど、迷惑とかじゃないから」
慌てて頭を下げるおなまえに、モブは手を振って否定する。
他の家族も私に呼び出されたことを知ってるのか…と思うとソワソワして指先が所在無く掌に触れた。
急に「散歩に行きたい」と連れ出されたモブは「女の子1人じゃ暗いと危ないもんね」とおなまえの様子に気付いてもいなさそうだった。
「勉強の気分転換?」
「ううん、そういうのじゃ…なくて。…ただ」
「…?」
「シゲ君に、会いた…くて」
「……ぇ…」
道を歩く足を止めてそう言えば、隣を歩いていたモブが数歩先で遅れて立ち止まる。
握った指先まで勢いよく血が巡って、バクバクという鼓動が強く体に刻まれていった。
「わ…たし、ずっと前から…!」
これだけは、目を見て言いたくて強めに声を張るとモブが振り返る。
おなまえらしからぬ声に見開かれた瞳と視線が交わった。
「シゲ君が、好き」
ツボミちゃんのことが好きでも、それでも。
諦めきれない。
どんなに苦しくても、シゲ君を好きな気持ちは捨てたくない。
震える声を必死に保とうとしながら言う。
「シゲ君と恋人になりたい」
熱い顔を隠したい衝動を抑えて見据えれば、多分私と同じくらい赤い顔をしたシゲ君がはく、と口を動かした。
「恋、人?…えっ…おなまえちゃ…、」
「……」
「ずっとって……ずっと?」
「…小学校、上がる前から……」
「ずっとだ…!」
コクリと頷くと、答えに困ってか私の手や足元に何度も視線をさ迷わせているシゲ君。
その視線に耐えきれなくて俯くと、答えてくれる訳ないよな、と気持ちが萎んできた。
だってシゲ君はまだ、ツボミちゃんが好きなんだから。
こんな振られた心の隙間に付け入るようなタイミングで告白したって…。
「…困るよね、急に。ごめんね」
なんとか笑ってみせて、「言いたかったの。どうしても」とだけ言うと元来た道を戻ろうと踵を返した。
これで明日から気まずくなってしまうな、と思うと余計に胸が重くなる。
でも、後悔先に立たずだ。
「待って」
数歩返した所で手首を掴まれる。
咄嗟に振り返ると「困ってない」と余裕のない表情で引き留められた。
「ごめん、そんなに長く…おなまえちゃんの気持ちに気付かないでいて…」
「シゲ…君…」
「……正直…僕は、気持ちをすぐには切り替えられない」
「…うん」
そう言われるだろうと、覚悟の上ではあったけれど。
いざ目の当たりにすると想像よりもショックが大きくて、視界が段々と滲んでくる。
目に溜まりつつある水膜が溢れる前に、「だけど」と続けられてその言葉の先を待った。
「ちゃんと、考えるから。おなまえちゃんのこと」
「それ…は……、私…期待しちゃうよ…?」
「は、早めに…なるべく早く、整理つけるから…っ!」
瞬いてポロっと一雫涙が溢れると、シゲ君がハンカチを差し出してくれる。
「もう少しだけ、時間を頂戴」
思い始めから今までに比べたら何時間だって良いよ、とせぐり上げる声で「待ってる」と何とか返事をした。
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04.10/ツボミちゃん好きなモブに幼い頃から片想いしてる夢主が報われる
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