▼キヨと晴貴で中秋の名月(2015)


朝晩はもうだいぶ冷え込むようになったように思う。黒いカーディガンを羽織った俺はゆっくりした足取りで林の中のベンチを目指していた。
時刻は八時。寮からの明かりがうっすら届くだけで辺りはすっかり暗い。慎重に歩かねば木の根や何かに躓いてしまう危険があることを分かっていながら視線は空へと向いてしまう。

幾つかの星の瞬きを捉える。南東の空がどこか薄明るいのは月のせいだ。今は木々に隠れその姿は見えない。温くも冷たくもない風が頬を撫でた。雲はほとんど出ていない。

開けた場所、目的のベンチに辿り着いたところで俺はもう一度空を振り仰いだ。濃紺の空に黄金色をした円い月。ほんの少しだけ歪なのは、月齢でいえばまだ満月に達していないからだろうか。

ベンチはちょうど南寄りを向いている。周囲の木々にフレームのように切り取られた空に浮かぶ中秋の名月、予想通り、絶好のロケーションだ。
わざわざ夜にここまで来る程度には、俺は普段から月を見るのが好きだ。一年のうち最も美しいはずの月を眺めるために出向くことは何の苦でもない。


俺の他に誰もいないここは静かだ。来た道を振り返って、まだ約束をした人が来ないことを確かめてから腰を下ろしたベンチは、ひんやりとしていて冷たかった。
袖を引っ張って手を隠す仕草を無意識でやってから、ああまたやってしまったと他人事のように思う。長袖を着たときについやってしまうこの癖のせいで俺の服はすぐに袖が伸びてしまうのだ。岩見には注意されるのだが寒いから仕方ないとすべてを気温のせいにしておく。


目を細めると月の光が滲んで、溶け落ちそうに見える。

晴れてよかった。とても綺麗だ。

「綺麗だな」

ぼうっとしていたからか斜め後ろから声をかけられてとても驚いた。反射でびくっと肩が跳ねてしまったことを恥ずかしく思いながら振り返って笑顔を見せる。

「―こんばんは、キヨ先輩」
「こんばんは。悪い、びびらせたか?」
「ぼんやりしてて気づかなかっただけです」

ビビったわけではない、と言葉には出さずに否定すると先輩はくすっと小さく笑った。その後に言葉は続けずベンチの前に回ってきた彼のために座るスペースを開けて左に寄る。
それなりに大きく空間をとったのに、彼は拳一つ分ほどの距離しか開けずに俺の隣に腰かけた。

「俺、遅かった?」
「いえ、全然」
「よかった」

ちらっと視線を向けた先の先輩は、口元に笑みを乗せたまま月を見上げていた。
持ち上げられた顎から喉仏の浮いた首のラインが綺麗だと思った。


「一緒に月見しよう」と誘ったのはキヨ先輩で、この場所を提案したのは俺。

本当なら夕食も一緒がいいなと話していたのだが、風紀の仕事が立て込んでいて食事をしながら打ち合わせをすることになったらしいのでいつものように別々に食べたのだ。
岩見はこういうのに気のりがしないという奴だから、人と月見をするのなんてもしかして初めてかもしれない。

大体なんだかんだと俺は中秋の名月を毎年眺めているのだが。

「晴れてよかったな」
「そうですね。くっきり見える」

「学校じゃ、月見団子もススキもないよなあ」
「本当に、ただの月見ですね」
「確かに」

話しながら、2人とも視線はずっと月に向いている。大抵いつも顔を見て話しているけれど、声だけでも案外彼がどんな様子か分かるものだなと思った。
すぐ隣に気配があるからだろうか。

「先輩は、月見団子とか家で作ってました?」
「ああ、祖母が張り切って作ってくれてた。小学生の頃に亡くなってからは全然だなあ、月見なんてしてたの俺とばあちゃんくらいだし」

懐かしむ口調に頷いて、小さな先輩が月を仰ぎ見ているところを想像した。
きっと今と同じようにそれは美しい光景だったであろうと思う。

しばらく会話が途絶え、俺は緩やかに思考を巡らせる。月が綺麗だ。
そういえばこの言葉に別の意味を持たせた人がいたな。

「夏目漱石でしたっけ」
「うん?」

唐突な俺の発言にキヨ先輩がこちらを見たのが分かった。俺も顔をそちらに向ける。
不思議そうな目。月明りだけで暗いのに、いや、月明りだけだからか先輩の瞳は濡れたように光っていた。

「月が綺麗ですね」

このフレーズでわかるだろうから一言だけを紡ぐ。彼は緩やかに頷いて目を細めた。

「皆が知ってるからもう奥ゆかしさもなにもないと思わないか」
「はは、確かに。でも俺、結構好きですよ、こういう曖昧な表現」
「俺も割と好き」

恋愛をしたことがない俺が言うのもおかしいなと思いつつも口に出す。先輩が笑って同意してくれたからそれでいい。

「十三夜も晴れると良いですね」

片見月は縁起が悪いのは知れたことだ。そうだな、と返ってきて俺は月に視線を戻した。
細長い雲がすぐそばに浮いている。

「キヨ先輩、次も一緒に月見しませんか?」
「俺は勝手にそのつもりだったよ」

一月先を約束するのは難しいかと思ったのだが、先輩はあっけらかんとそう答えた。
嬉しくなって口角が上がる。

それならよかったですと返した俺に先輩も笑った。



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