▼梅雨の日の放課後
細い、霧のような雨が地面を濡らしている。ぬるく湿気をたっぷり含んだ空気は肌にまとわりつくようで、首筋がうっすらと汗ばんでいる感じがした。
息を吸い込むと、うっすらとどことなく甘い匂いがする。ああ、梅雨だなと、もう時期も半ばに差し掛かった今になって思う。
土なのか草木なのか、はたまた別の何かなのか、梅雨の時期は不思議な匂いがする。
軒先の外側へと足を踏み出すと途端にひたひたと雫が肌や服を濡らした。
ちょっとの雨では傘をさそうとは思わない。あんまり濡れて帰ると、風邪を引くだろうと岩見が母親のごとく叱ってくるが、この勢いではずぶ濡れになることもないだろう。
部に所属する生徒はまだ活動中で、用事のない生徒は既にほとんどが帰寮している時間帯だ。寮に向かう小道には他の誰かの姿はない。
少し進むと、紫陽花が植わった花壇がある。華やかな青紫色に惹き付けられるように歩みが止まった。
雨を受けたその植物は、葉も花もいきいきと色鮮やかに見える。手を伸ばして水滴を乗せた紫をつんとつついてみた。
そういえば、紫陽花って土の成分によって色が変わるんだったっけ、とうろ覚えの知識を思い返す。
落ちてきた雨が睫毛にのって、まばたきをするとまるで涙のように頬を伝っていった。
おかしな感覚に頬と目を軽くこする。ふと上げた視界の隅に人影が映ったような気がしてそちらを見ると、傘を差したキヨ先輩がいた。
離れたところで立ち止まり、なんとも言えない表情をしている。
「キヨ先輩?」
俺が振り向いても反応しない彼を不思議に思いながら呼ぶ。先輩は、はっと夢から覚めたような表情をした。
夕焼け色の煉瓦を敷き詰めた道を歩いてこちらまで来ると、俺の一歩手前で立ち止まりじっと見つめてくる。
無言、というよりも何かを考えている様子の彼に困って、俺は少し視線をさ迷わせた。
濡れて色を濃くした花壇の土から、キヨ先輩の履いた黒い靴に焦点が移ったとき、唐突に視界に入り込んだ白い手が俺の片頬を捉えた。
驚いて「えっ、」と小さく声がもれた。包み込むように優しく添えられたその手は、俺が上を向くことを促す。
ゆっくりと顔を上げ、キヨ先輩を見た。緑を散らした、榛色の目。
「キヨ先輩……?」
先輩が、添えたままだった手の、親指で俺の目尻を撫でた。目を眇めてそれを受け入れると、ようやく彼が口を開いた。
「…泣いてるかと思った」
「―俺がですか?」
「うん。……泣いてない?」
まるで悲しいことでもあったかのような心細げな声で確認をされた。俺がふっ、と小さく笑うと、ずっと怒っているのかと思うくらい動かなかった表情がやっと緩んだ。ほっとした、という表現があてはまるだろうその顔に温かな気持ちになる。
頬に当たる手を上から柔く握って泣いてませんよと返す。
「多分、水滴のせいでそう見えただけです」
「そうか。なら、勘違いだな。―よかった」
すり、ともう一度だけ俺の目のすぐ下に少しだけ固い指の感触を残して温もりは離れた。俺も腕を下ろして白く美しい彼の手を放す。
「―もしかして、それで心配してくれてたんですか?」
「そりゃあ、するよ。するだろ? ハルを泣かせるようなものってなんだとか一瞬でいろいろ考えた」
「キヨ先輩が喋らないから、俺、何かして怒らせちゃったのかなって思いました」
「やー……、ごめん。泣いてるってことしか考えてなかった」
なんとなくばつが悪そうに左手に持った傘をくるりと回す彼に笑ったところで、先程から雨の冷たさを感じていないことに気が付いた。
そばに寄ってきたところから、ごく自然に彼は傘を差しかけてくれていたようだ。
返事する余裕もないほど心配したと言われたことに、その然り気無い優しさが加わって、よくわからない感覚に満たされる。
大声をあげたいような、胸が詰まって一つも声がでないようなおかしな感じ。
俺は両手で顔をおおって俯いた。顔も手も少し濡れている。
「え、ハル? どうした?」
「―キヨ先輩って、ほんとにキヨ先輩ですよね」
戸惑う先輩に、誰が聞いても意味が分からないような、言った俺ですらもなんだそれ、と思うような言葉を呟く。
なにそれ? とやはり彼は不思議そうに笑った。「俺もわかりません」と答えながらつられて笑う。
キヨ先輩の、気付かれることを前提としていないやさしさとか気配りとか、さっきみたいな真っ直ぐな心配とか、そういういろいろを俺は多分、とても好ましく思っていて、それらに気が付くたびになんと名前をつけたらいいか分からない感情になるのだと思う。
理解できないことは俺にとって不快だ。けれど、キヨ先輩は俺にもたらすそういう不思議な感情を嫌だと思ったことは一度もなかった。
いつかこの感情に名前がつけられたら、その時は一番最初にキヨ先輩に伝えようと俺はそっと心の中で決めたのだった。
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