My heart in your hand. | ナノ


▼ 31

ひんやりした空気に頬を撫でられて目が覚めた。目を擦りながら体の向きを変えて後ろを見る。壁際で寝ていた岩見の姿はもうなかった。
照明なしで充分室内を見通せるくらい日が昇っているから、きっと朝食を作っているのだろう。
枕元を探って見つけたスマートフォンで時刻を見る。画面が眩しくてしかめ面になった。新着通知を消しながら、重要なものがないことを確認してのろのろと体を起こす。もつれた髪をかきあげて伸びをすると、肩の関節から音が鳴った。
寝室を真っ暗にしたがる岩見がわざわざ実家から持ってきた遮光カーテンは端で纏められていて、白いレースのカーテンだけが引かれている。透かすように射し込む光は強く、もう梅雨は開けたのだろうかとふと思った。

「エスー……あ、起きてた」
「おはよ」
「はよー。ご飯出来たから呼びにきた。顔洗ってこいよ」
ドアの隙間から顔を覗かせた岩見は、ぼんやりしている俺を見て笑顔になった。うん、と頷いて床に足を下ろす。
さっさと戻っていった背中を追いかけて部屋を出る。その前に除湿で稼働したままになっていたエアコンのスイッチを切った。

朝食は目玉焼きにウィンナー、白菜の漬物、わかめと豆腐の味噌汁。それからサラダ。炊きたてのご飯をよそう岩見を尻目に、元気に空きを訴える腹に急かされるように俺は洗面所へと向かった。
冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗い、滴る滴を手の甲で拭いながら視線をあげる。癖毛というほどでもないが完全に直毛でもない俺の髪はいつも毛先が少し跳ねてしまう。それを目立たないように軽く整えて寝癖を直す。

見苦しくなければいいだろうという味気のない考えの持ち主だから、特別に見目がよくなるようにと意識したことはない。というか、そんなふうに造作を整える器用さがないのだ。たとえしたかったとしても、出来ないのではないだろうか。
そんな俺とは違って、岩見は猫っ毛でコシがないからすぐにぺったりしてしまうのだと文句を垂れつつ、いつもちゃんとセットをしている。だからへにゃっと垂れた髪型の岩見は部屋限定だ。
棚に置かれたクリームタイプのワックスが目に入って、あいつが毎朝鏡とにらめっこする様子を思い浮かべた俺は、少しおかしくなりながら用意してくれていたタオルで顔を拭いて部屋に戻った。

「ありがと、岩見。腹減った」
「おう。たんと召し上がりたまえ、青年よ」
食卓はすっかり準備が整っていた。いつもより起きるのが遅かったせいで手伝えなかった。
謝ると嫌がられるので代わりに感謝の言葉を伝えてから席に着く。そして食欲をそそる匂いに促されるように俺たちはそれぞれに箸を手に取った。

美味しい食事がいつも食べられることは、綺麗なものを眺めているのと同じくらい幸せなことだと思う。


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