My heart in your hand. | ナノ


▼ 17

四月も終わりに近づいた休日。自室にこもっていると、軽くドアが叩かれる音がした。
「なに?」
「江角くんにお客さんだよー」
北川ののんびりした声。ベッドに寝そべったままドアを振り返る。

「エスー」
「あ、岩見か」
誰かと聞く前に少し遠くから声が聞こえた。反動をつけて起き上がりドアを開けば、目の前には北川がいて玄関の方から岩見がひらひらと手を振る。

「どうした」
「プリン作った! 北川くん? も、食べてくれたらいいなと思って」
名前を確認するようにこちらを見たまま疑問符つきで北川を呼んだ岩見は、俺が合っているという意を込めて頷くと、柔和な表情で北川を向いて友好的に笑いかけた。
「え、俺もいいの? プリンめっちゃ好き」
ぱっと北川の顔が明るくなる。常にどこか眠そうな雰囲気だから、そんな顔も出来るのかと少し意外に思った。

部屋を出て、飲み物を用意しようとキッチンの方に向かう。北川と共有しているコーヒーはインスタントの粉のやつ。俺に大したこだわりはないので、北川が好んでいるものだ。俺はどちらかというと紅茶や日本茶が好き。コーヒーより少しだけ手間がかかるから気が向いたときしか飲まないけれど。

「北川、岩見と初対面だっけ」
「あ、うん、そうかも。一方的に知ってるだけだわ。初めまして、北川嘉昭です、江角くんのルームメイトです」
「初めましてー。岩見明志です。エスの友だちです」
ぺこりと頭を下げ合う二人の少し冗談混じりの畏まったやりとりに軽く笑って、洒落っ気のないマグカップに用意したコーヒーを運ぶ。
ローテーブルのそばに座るついでにクッションを隣に用意して、腰を落ち着ける位置に迷っている岩見を座らせる。北川はソファの定位置に収まると、早速コーヒーに口をつけた。
そしてふうと息をついてから思い立ったように俺と岩見とを見比べて口を開く。

「そういえば、岩見くんは江角くんをエスって呼んでるんだね?サディスティックって意味のエス?」
岩見が噎せた。「え? 大丈夫?」と首を傾げる北川。
「違う」
口元を抑えて咳き込んでいるのか笑っているのか分からない状態になっている岩見に代わって、端的に答えを返す。渋い顔になっている自覚がある。

「うん?」
「っ、はあ、北川くんおもしろー。そういうのじゃなくて、普通に名前からだよ。江角のエス! まあちょっとサディストかもしれないけど、そういうのは俺の預かり知らぬことだからね」
「普通に全否定してくれ」
顔をしかめて、コーヒーの湯気を吹く。
なるほどと納得した様子の北川を尻目に、岩見はまだ笑いの余韻を残しながら持ってきた袋から小ぶりな器に入ったプリンを取り出した。
滑らかな卵色をしている。

「すげー、岩見くんってこういうの得意なの?」
「得意っていうか、好きなんだ」
照れたふうに笑ったと思えば、エスの分は甘さ控えめにしておいたからねとどうだと言わんばかりの顔をする。

「わざわざ甘さ変えたのか」
「うん、だってエスにも美味しいって思ってほしいだろ」
「別に甘くても、うまいと思う」
「黙って食べろって」
俺の為にわざわざ調整しなくていいと思って言ってるのに、この言い草である。岩見が面倒に思ってないなら、まあいい。
甘いものが苦手というわけではないが、市販のプリンは甘すぎると感じることが多いから、気持ちは嬉しい。
はいはい、と返事をして柔らかく弾力のあるプリンにスプーンを差し込んだ。口に含めばほのかに甘くとろける。

「うまい」
「だろー」
岩見はふふんと笑ってスプーンをくわえる。視線を感じて前を向くと、北川が不思議そうに俺たちを見ていた。

「なあ、不快に思ったらごめん。二人って付き合ってるの?」
「ない」
「ないな」
揃って即答する。むしろこっちが不思議だ。
「なんでそんなこと聞く?」
「違うのかー。ごめん、なんか夫婦的な空気を感じた」
「夫婦! 夫婦だって、エス! 俺が旦那さん?」
「主夫か」
完璧にこなしそうだな、と軽口を叩く。
北川はプリンを食べて今度はそちらに意識が向いたのか、美味しい美味しいとしきりに褒めて岩見を照れさせていた。
なんで俺がうまいって言ったときと反応が違うんだ、こいつ。

それにしても、俺たちのなにが付き合っているふうに感じさせるのだろうか。別の人間から同じ内容のことを言われるとは思わなかった。もちろん、悪意のない北川に腹を立てたりはしないが。

俺は岩見を友人だと思っている。抱いている感情としては兄弟に対するものが近いのかもしれない。
いや、だからといって実の兄に対してと岩見に対する感情が同じかと言えば違うのだと思うけれど。

それを周りから付き合っているようだなどと言われると頭の中がこんがらがってしまう。考えると分からなくなる。感情というものは本当に不確かだ。
例えば同じ喜びでも他人と自分が抱く感情が同じとは限らない。そんな状態でどうやって恋や友情やその他の感情の区別をするのだろう。

俺も誰かに恋をしたらそう気がつくのか? 全く予想ができない。とても遠い話に感じた。

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