My heart in your hand. | ナノ


▼ 21

ふと気が向いて、久しぶりに大浴場に来た。数回岩見と来たことはあるが、一人で来るのは初めてだった。
時間が遅かったためか、幸運にも広い浴場にも脱衣場にも全く人気がなかった。やはりよく使う特定の人達以外は、さほど利用者はいないのだろう。お陰でゆっくり出来る。

広い湯船にゆったりと浸かって、濡れた髪を後ろに流す。はあ、と溜め息が勝手に出た。
ぼんやりしていると浮かんでくるのはどうしても、現在最も頭を占拠していることだ。全く苦手な分野だとつくづく思う。本はいくらでも読むし、恋愛要素が描かれたものも確かにあった。だが俺が読んだもののなかではそれは話の主軸ではなかったから深く掘り下げられていないことの方が多かったし、恋愛感情とはこのようなものだと明示されていたわけでもない。

難しい、と思う。こんな曖昧なこと、いつもならさっさと考えることをやめている。
それなのに目を閉じると、あのときのキヨ先輩の手の温度や俺を見つめた目が勝手に浮かんでくる。嫌になるほどよく記憶しているのだ。だから考えないではいられない。それに約束もしたから。

ふと派生して、彼の触れ方のことを思う。
困ってしまうくらい丁重で、大切なものに触っているような手付き。よくそう感じたのは、間違いではなかったのかもしれない。あれは彼の癖ではなくて、俺に対してだからそういうふうだったということではないか。そこまで考えてとても居たたまれなくなる。
いつもなら自意識過剰だなと自分を諌めるけれど、これはそう思えなかった。

「……う、」
喉の奥で呻く。変な顔になっている気がして、俺は頭を振って強く両手で頬を叩いた。


「……なーにしてんの?」
はあ、と息をついたとき、呆れた声が頭上から降ってきた。ぎょっとして見上げる。
肩にタオルをかけた久我さんが腰に手を当てて堂々と立っていた。
「いや、隠せよ」

「あ、久我さん」と言ったつもりだったが、口からは全く別の言葉が出ていた。
それに頓着せずばしゃりと浴槽に足を入れた久我さんは、目を逸らした俺の隣に当たり前のように並んで湯に浸かった。
ぐっと長い手脚を伸ばしてから、縁に腕を乗せてこちらを向く。それが視界の隅に見えたから、俺も渋々隣に顔を向けた。一人でゆっくり入りにきたのに、なんだか会話する流れになってしまっている。

天井の照明から落ちる橙色がにっと笑う眼の中で光っている。
「珍しいな? 晴貴がここに来んの」
「まあ。久我さんは、よく来るんですか?」
「そーね、この時間帯は特に空いてるから。広い風呂って気持ちいいしさ」
「そうですね」
彼は普通より少しゆっくり話す方だ。気怠そうに低い音を出すが、張り上げればもっと高いのだろう。少し眠くなる声だと思う。

頷いた俺の顔を彼はわざわざ上体を傾げてまで覗き込んだ。興味深げにも面白がっているようにも見える。

「なに」
「そうやって前髪あげてるとよく分かるけど、お前ってほんと良い顔してるな。実は結構好みだわ」
「久我さんって、男が好きなんですか」
「んー? 付き合ったことあんのは女の子だけだな」
「ふうん」
「でも晴貴なら余裕でチューできるわ。どう、しとく? 二人きりだし」
にんまり笑う顔に本気さは欠片もない。鬱陶しいと口にする代わりに顔を背ける。
はは、と低い笑い声が少し反響した。

「なんなんすか」
「いやー、懐かない動物みたいでかわいいなと思って」
「変な人だな」
懐く動物の方が可愛く感じるものなのではないだろうか。俺はあまり動物に関心がないから、普通がどうかは知らないが。


「んで? なんかあった?」
「はい?」
「いつもと違うじゃん」
「―そうですか? 別に変わらないと思いますけど」
「晴貴は普段から、突然自分の顔をひっぱたく子なわけ? 安里クン、心配になっちゃう。赤くなってんぞ」
おもむろに伸ばされた指の背がするっと頬を撫でた。急な接触に驚いて心なしか距離をとると、久我さんは「そんな逃げるかー?」と楽しそうにする。

あの一連の動作を一部始終見られていたのか。恥だ。確かに何をやっていると問われはしたが、その後自然に話が流れたからあまり気にしていなかった。
というか、久我さんがいつの間に入ってきたのかも知らない。頭が濡れているのを見るに、もしかすると洗髪なども終わっているのかもしれない。シャワーの音に気が付かなかったのだとしたら、本当にぼんやりしすぎだ。

「難しい顔してんなー。柄悪くてウケる」
「失礼な人だな」
「あはは。なになに、委員長サンに告られでもしたー? なぁんちゃっ……え?」

ぎょっとして咄嗟に久我さんの方を向くと、彼は言葉を切って目を丸くした。綻んでいた頬から笑みの名残が消え、真顔になった彼にまじまじと見詰められる。

広い浴場に一瞬耳鳴りがしそうなほどの静寂が満ちた。


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