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添えられた親指が、唇のすぐ脇や目の下も優しく撫でる。
まるでとても大切なものに触れているかのような手つきがくすぐったい。いったいどう言った心持ちでこんなふうに俺の頬になど触っているのだろう。
そっと表情を窺ったのとほとんど同時に、先輩がはあ、と息をついた。
それはなんだか、柔らかく羽のように積もっていたものがいっぱいになって、器からひらりと溢れてしまったような、そんな響きを持っていた。
「ハル、」
また紡がれた名は、まるで宝物を表すもののように聞こえた。
何度もなんども耳にして、すっかり定着し馴染んだ、もう違和も照れも感じないはずの呼名。なのにその声は今まで聞いたキヨ先輩のどんな声よりも、そして俺を呼ぶ他の人たちのどんな声よりも何かどこかが特別で、鼓膜を震わせずっと奥、胸の中の一等柔らかいところに沁み込んでいくような、そんな錯覚を起こさせた。
これほど大事そうに、優しく空気を震わせたそれが自分の名前だなんて、俺には信じがたかった。
キヨ先輩は、少しだけ眉を寄せ、もう片方の手も伸ばして一度頬を包むようにしてから、その両の腕を俺の首の後ろに回した。
そうされるとごく緩やかにだが、抱き締められているような格好になる。いや、"ような"ではなく、抱き締められている、らしい。
ぐ、と引き寄せられて姿勢が傾ぎ、ベンチに片手をつく。指に当たった葉が地面に落ちたのが分かった。
先輩が、俺の肩口に額を押し当てるようにして顔を伏せる。
近い。キヨ先輩の匂いがする。
やばい。
なんだかもう死にそうな心地でただそれだけ思った。全神経が右肩と首元の辺りに向かってしまったようで、指先一つ動かせない。前に抱きしめられたことはあったけれど、それはこんな空気の中ではなかった。
心音が、器官として異常なのではと心配になるような音を立てている気がする。俺の状態がおかしいだけか? 先輩は、実はいつもと一緒なのだろうか。判別できない。
囁くようにまた呼ばれる。声が直接耳を撫でるみたいで、肩に力が入る。
だから、どうしてそんな風に俺を呼ぶんですか。
「先、輩―どうしたんですか……」
つかえてしまったし、聞かせる気はあるのかというほど小さな声しか出なかった。情けない。
先輩の腕にほんのすこし力がこもる。
いや、やはりいつもと一緒などではない。さっきからずっと、キヨ先輩はいつもと違うのだ。どこかぼんやりしているようにも切羽詰まったようにも見える。
「嬉しい」と言ってくれた俺の言葉か何かが、先輩をそうしたのだろうか。それとも何か別のことか。分からない。そして、分からないことだらけなのにまともに思考する余裕がない。
「ハル……」
ただ名前だけを繰り返す彼の背に行場をなくしていた片手でおずおずと触れる。気のせいかもしれないが、呼ぶ声が少し辛そうに感じたのだ。きっと今の俺たちの姿勢は誰かが見れば抱き合っているように見えるだろう。
ブレザー越しに背中をそうっと撫でる。と、キヨ先輩がおもむろに顔を上げた。声と同じ、憂うような苦しげな表情だった。それなのに甘さも熱のようなものも含んだ複雑な表情だ。先輩のそんな顔を、俺は今まで見たことがあっただろうか。
言葉を失う。何を言われるのか、分からないにも関わらず途方もない緊張感が押し寄せてくる。
先輩が、吐息さえ触れそうな距離で唇を開いた。
「―ハル。俺はハルが好きだよ。お前が思っているよりもずっと」
不思議な熱を持った言葉が、空気を震わせる。
狼狽えて散り散りになっていた思考が止まって、それから頭の中がしんとなった。
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