My heart in your hand. | ナノ


▼ 14

先輩はまだこちらを見ている。恐らく数十秒にも満たないであろうその時間がとても長く感じられ、もうよほど視線を逸らしてしまおうかと思ったとき、目尻が垂れ睫毛まで薄い色をした目が緩く弧を描いた。
笑ったのだと遅れて気がつく。なぜ笑ったのだろう。俺の反応を面白がっているふうはなく、ひたすら優しい表情だ。

―ああ、駄目だ。この空気は、困る。

とうとう視線を落とし、俺は彼がいつもつけているネクタイピンを凝視した。銀色のシンプルなピンにはよく見ると浮き彫りのような装飾があった。その部分を眺めながら、どうしよう、と思う。何が「どうしよう」なのかも、何故自分がこんなに当惑しているのかも説明できない。
こんなのはキヨ先輩のせいだ。俺をこんなふうに変に狼狽えさせるのはいつだって彼で、彼以外にないのだから。

カーディガンの、伸びてしまった袖をぎゅっと握る。日は傾き、俺には寒いくらいの気温になっているはずなのに、それを感じる余裕がない。
いつもの空気に戻してほしい。さっきまで普通だったのに、と思う。

「ハル」
何か言って、と思ったのが聞こえたみたいに少し落とした声で名前を呼ばれた。望んだ通りであるはずなのに、俺はその声にぎくりとした。
ピンに目が固定されてしまったようなぎこちなさを覚えたが、それでもキヨ先輩に呼ばれれば俺は反応できるらしかった。下向いていた顔が勝手に上がり、声も出せぬほどいっぱいいっぱいだと感じているのに「はい」と返事さえする自分を、まるで主人が慕わしくて仕方のない動物のようではないかと頭の冷静などこかが揶揄する。
ぎゅっと握ったスラックスに皺が寄るのが分かる。

キヨ先輩は優しく仄かに笑んだまま「触ってもいい?」と言った。目を瞬く。
彼の表情のなかに緊張のような色を読み取った。触るって、俺にだよな? と必要もないはずの確認を頭のなかでした。

どうして今、急にそんなことを言うのだろう。先輩の頭の中が全く読み取れない。戸惑いからやや躊躇したが、結局は小さく頷いた。

その動きが強張っていることに自分で驚く。
だから、なんで俺はこんなふうになっているんだ。本当に意味が分からない。

「聞く必要ないです」
変な感覚を振り切りたくて、敢えてはっきりした調子でそう付け加える。先輩は「そっか」とだけ言って、嬉しそうな顔をした。

白い手が、最初に触れたのは頭だった。頻繁にではないが、彼が触れることの多い場所。くしけずるように撫でられるのは、慣れれば少し心地よい。
わざわざ触っていいかなんて聞くから、一体どこをと若干身構えていた。だから触れられたのがいつも通りの場所で、安堵と落胆が混ざったような心地になる。いや、間違えた。落胆ってなんだ。

忙しく考えていたら、するりと頭部を撫でた指が前髪を軽くかきあげて、こめかみのあたり、おそらく古い傷痕がある場所をなぞった。
俺は一瞬ぎゅっと目を瞑ってから、あとは大人しくその感触と温度を受け入れる。すっと一瞬離れた手は、次に頬に触れた。

どん、と心臓が跳ね上がった。ああだから触っていいかと聞かれたのだと納得もする。確かに、こんなふうな触れ方を突然されたら驚愕する。触られたことが、ないわけではないけれど。

まず指先だけで輪郭を辿るようにした後、もっと雑に触ってくれていいと言いたくなるくらい丁重に柔らかく掌全体が右の頬にあてがわれる。温かくて、触れられたときつい強張った体から力が抜ける。緊張と弛緩が目まぐるしい。


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