▼ 深呼吸
清仁視点。
委員会の仕事が終わって時計を見ると、十八時を少し過ぎた頃だった。一緒に夕食をとらないかと誘ってくれる委員達に「用事があるから」と断って、図書室に向かう。借りていた本を返却しなければいけない。
図書室が開いているのは職員が巡回がてら戸締まりを始める十九時までだ。まだ余裕はあるので特に急ぐこともせずにゆったりと歩く。
部活や委員会でまだ学校に残っていた生徒とすれ違う度に挨拶や会釈をされる。ここには各委員会の委員長や生徒会にひどく丁寧に接する生徒が多い。
委員長様と呼ばれる違和感は未だ完全には消えていない。無難な返事をするだけで目を輝かされることにも、慣れているとは言い難い。
図書室に近づくにつれて人気が少なくなり、ようやく少し気を抜けた。風紀委員長として動く時は冷静で公正な、頼りになる人間であろうと心がけているが、それは俺にとって楽なことでは決してなかった。本来の鷹野清仁という人間は、特段冷静でも人から頼られる人柄でもないから。
気を張っていなければこの一風変わった学園の委員長としてふさわしい行動はできないのだ。
だからといって、気を張っていれば委員長らしくできるのかと聞かれても俺には返答のしようがないのだけれど。
長く息を吐き出しながら少しだけセットしている髪を、無造作にかきあげた。ワックスのせいで僅かに指通りが悪い。
たどり着いた図書館の戸を引くとガラガラと音が鳴った。自分と同じくらいかそれ以上に本が好きな彼がいつも座っている場所に一番に視線を投げたのはほとんど無意識だった。
けれど、そこに実際に彼が友人と共に座しているのを見たら勝手に口元が綻んだ。
音に反応して顔を上げたのは向かいの席にいた岩見で、俺の心を意図せず緩ませたハルは引き戸の開閉音も聞こえないくらい本に没頭している。
岩見はそんなハルに視線を投げると小さく苦笑しながらこちらに会釈した。
笑ってそれに応え、岩見が俺の存在を知らせる前に、傍まで行って後ろからぽんとハルの頭に手を置いた。そのまま髪を撫でる。整髪料を何もつけていない髪は、俺のそれとは違ってさらさらとしている。
ハルは、やや目を見開いて小さな驚きの表情をつくって振り向いた。俺を見上げ、「あ」と声を出す。
「こんにちは、ハル」
「え、あ? こんにちは……え? いつの間に」
「今来たとこ。なあ、岩見」
状況が掴めないといったようにきょとんとしている姿は少し幼い。答えて、岩見に同意を求めると軽く驚いた顔をされた。まるで自分が話しかけられるとは思っていなかったという表情に、俺の方も少し驚く。
すれ違ったら挨拶をするし何度か会話もしたことがあるので、俺の中で岩見は風紀委員の後輩と同じくらいの位置にいたのだが、岩見にとっては顔見知り程度だったのかもしれない。
「そーだよ。エス、全然気づかねえんだもん。いいんちょー、かわいそー」
もしかして馴れ馴れしい態度だったかと反省しかけたとき、繊細なつくりの顔は、さきほどの表情を拭い去ったように消して、ぱっと楽しげな笑みを浮かべた。
「はあ? お前、気付いてたなら教えろよ」
「だって委員長の足が長いから」
「意味分かんねえ」
不服そうなハルが正面に向き直って岩見と言い合う。岩見の表情を見ていた俺は、その振り向く動きでずっとハルの頭に触れたままだったことに気が付いてそっと手を下ろした。
最初の頃は少し触っただけでも肩を跳ねさせたり、その触れている部分が気になって仕方がないというようにそわそわしたりしていたのに、いつの間にこんなふうに受け入れてくれるようになったのだろう。
俺も分からないくらい少しずつ少しずつ許容されていって、そのことに今みたいにふと気が付いたとき堪らない気持ちになる。ハルが可愛い。
prev / next
207/210