My heart in your hand. | ナノ


▼ 7

早歩きの足音はそのまま過ぎていくだろうという予想に反して、なぜか道から少し離れたこちらに近づいてきたかと思うとぴたりと止まった。

「ハル」
呼びかけにぱっと目を開く。
「キヨ先輩?」
驚いた。軽く息を乱して俺の前に立っていた先輩は、呼び返した俺に意表をつかれたみたいに、少し幼い表情で目を瞬いた。

「―今起きたの?」
「え?」
問われた意味がよく分からずに首を傾げると、じっと凝視された。
「ハル、寝てたんじゃないのか?」
「え、いや、起きてました」
戸惑いながらの返答に、先輩は瞬きをしてから眉間をぐっと寄せて「あいつ、嘘ついたな」と忌々しげに呟いた。首を傾げる俺に気が付くとその険しい表情はすぐに和らいで、説明をしてくれる。

「柊が、ここでハルが寝てるけど起こしても起きなかった、って言うから」
「はい?」
なんだそれ。なんでそんな出鱈目をわざわざキヨ先輩に。ついでに、そういえば副委員長の名前は柊だったなとも思った。

「前も言ったかもしれないけど、こんなところで寝たら風邪引くかもしれないし何より危ないだろ。だから」
俺、すげー焦っちゃった。と締め括って、キヨ先輩は苦笑いとはにかみの中間のような表情をする。
それを見たら自然と笑みが浮かんだ。先輩を見上げたまま、長椅子をポンポンと軽く掌で叩く。ここに座って、という仕草に彼は目を緩ませて隣に腰を下ろしてくれた。

「前、キヨ先輩に注意されてから外で眠ったりはしてないから、安心してください」
「そっか、よかった」
「はい。心配させてすみません」
「ハルが謝ることじゃないよ。俺が勝手に心配しただけだし、それも柊のせいだし。――にしても、あいつはたまに余計な気を回すな」
最後の言葉は不明瞭で低く、恐らく独り言のようなものだった。少し乱れた髪を無造作に後ろにかきあげながら小さな溜め息をもらす横顔を窺うが、その表情は迷惑しているというより親愛のこもった呆れに見えた。副委員長の行動に、何事か察するものがあるらしい。俺には全く理解できないが、キヨ先輩が分かっているならいいのだろう。

俺は思いがけずキヨ先輩に会えて嬉しいから、別に気にしない。

気を取り直したように先輩が俺を見る。
「ハル、こんなところ知ってたんだな。結構、場所分かりにくいだろ?」
「最近よく歩き回ってるので。この間見つけてからたまに来てます」
「そっか。そういえば、綺麗だもんな。ここ」
「はい」
俺が綺麗なものを好んでいることを知っているからこその納得を含んだ柔らかな声。夕焼けに照らされて花弁を透かしているコスモスに向ける目は、少し眩しげだ。
ついと持ち上がった指が向こうの木を指さした。
「そこの木、金木犀だよ。もう少ししたら花が咲くと思う」
「いいですね。俺、金木犀好きです」
そうか、あの木は金木犀なのかとそれまでただの風景になっていた木を見つめる。紅葉しはじめている他の木とは違って豊かな緑色をしている。金木犀の花は香りも色も好きだ。

「うん、俺も」
振り返った先輩を見て、やはり先程の副委員長の問いに対する答えはあれが一番正しかった、と思う。キヨ先輩の笑った顔が好きだ。


「あれは楓ですか?」
「そうそう。で、あっちの方はソメイヨシノ。もう葉が落ち始めてるな」
「銀杏がない気がするんですけど」
話しながら、そういえばと周囲の木を眺める。あの特徴的な形の葉をつけた木は見あたらない。
「中庭の木は大体、楓と金木犀と桜だよ。銀杏は匂いを嫌がる生徒も多いから、だいぶ前に植え替えされたって聞いたことある」
「あぁ、なるほど……」
庭にそんな配慮までされているのか。確かに匂いはあるが、黄葉した銀杏は綺麗なのに。残念だ。
ぼんやり考えていると、キヨ先輩が立ち上がった。

「もう日も沈む。帰ろう、ハル」
「そうですね。―あ、先輩、荷物は」
「……、風紀室に置いたままだった」

「一緒に帰れない」と呟いて心持ち残念そうな表情をする先輩の顔を覗き込む。

「どうせ寮に戻るときは校舎の方へ行くんですから、俺も一緒に行きますよ」
「それ、ハルが面倒だろ」
「全然」
でも、と渋る彼の背中を軽く押す。
「なら、俺と寮まで散歩するって思って下さい。散歩がてら、荷物を拾いにいきましょう。ね?」
笑いかけると、キヨ先輩は驚いた後、すぐに相好を崩した。年相応に青年らしい顔つきの先輩の頬の辺りは、肉も薄く特別まろいわけでもないのに、そんな表情をすると柔らかそうに見えるから不思議だ。

「なにそれ、楽しいな。あと、なんか甘やかされたみたいでちょっと照れる」
「そうですか?」

甘やかしているつもりは全くない。俺が言葉の通り先輩と寮まで散歩をしたいだけだし。
「じゃあ風紀室、行きましょう」と再度かけた声に返ってきたのは渋るものではなく、明るい肯定だった。


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