My heart in your hand. | ナノ


▼ 3

じっと見ていると、それに釣られたように榛色の目がこちらを向いた。陰になっている場所だから、キヨ先輩の淡い色の虹彩も少しだけ暗く見える。
俺はそのまま何の気なしに手を伸ばして、人差し指でまだ力が入っている彼の眉間に軽く触れた。キヨ先輩は予想以上に驚いた様子で瞠目する。力が抜けたようなので満足だ。

それにしても、大抵は泰然としているキヨ先輩が驚いたり焦ったり照れたりしているのを見ると、なんというか、気分が良い。不思議なことに。

「それって、俺だったから気になったってことですか?」
「、え? あ、まぁ……そう、かな」
「ふうん」
「ハル?」
「ちょっと嬉しい気がします。だからもうそんな顔しなくていいですよ」
膝に肘を乗せて頬杖をつきながら笑う。先輩はまじまじと俺を見返した。

「盗み聞きされてなんとも思わないのはまだしも、嬉しいってどういう心理なんだ?」
困惑顔に、こちらも首を傾げて「俺もよくわかりません」と応じる。

「そんなことより。キヨ先輩、今帰りですか?」
彼の傍らにはバッグがある。それに視線を投げると、話題の転換に戸惑った様子をしつつも頷かれた。
「今日は早いんですね」
「そうだな、いつもよりは」
「じゃあ、一緒に帰りましょう」
立ち上がって、未だしゃがんだままのキヨ先輩に手を差し出す。俺の顔と、差し出した掌を順番に見た彼はそっと手を取って、それからようやく笑ってくれた。


並んで寮への道を歩く。夕陽は先程よりさらに低くなって、ここからはほとんど見えない。
「―ああいうのって、よくあるのか?」
「え?」
取り留めのない話の切れ目に、そっと問われて隣を見る。キヨ先輩は前を向いたまま「告白」と言った。
「ああ……」
曖昧な声を溢して、少しだけ無意味に宙を眺める。

「今までは全然だったんですけど。新学期入ってから、たまに。何なんですかね」
「そっか。……もしかしたら、文化祭が近いせいかもな」
文化祭。
「それとこれと、何の繋がりが?」
全く因果関係を掴めない。

「イベントを恋人と一緒に楽しみたいとか、恋人がいたら準備も頑張れる、とかかな。実際、文化祭と修学旅行のシーズンは付き合いだすやつが急に増えるみたいだし」
「はあ……そういうものなんですか」
全然分からない感覚だ。返事もぴんときていないのが丸出しで、先輩は「そういうものらしいよ」と言いながら少し笑った。

「―や、だとしてもその相手に俺を選ぼうと思うのは選択ミスでしょ」
「嫌?」
吹き抜けた風は、まだ夏の気配を残していた。煽られた前髪を手で直しながら言葉を探す。
「嫌っていうか……、楽しい思い出作りたいなら、もっと他にいると思います。ノリの良さそうなやつとか。俺を選ぶのは変」
「好きだから、じゃないのか? それが大前提だろ」
「でも、話したこともないんですよ? どんな人間かも知らないのに」

恋ってそういうものですか。問いかけに、先輩は考えるように目を伏せて唇を触った。

「うーん……まあ世の中には、一目惚れっていう概念もあるからなぁ」
「一目惚れ」
繰り返してみる。ファンタジーに登場する言葉か何かのように、舌に馴染まなかった。

「キヨ先輩も、一目惚れ、したことありますか?」
「見た目で好きになったことはないかな。容姿の好みも別にないし。その様子だと、ハルもないみたいだな」
「恋愛感情ってどんなものかよく分かんないんですけど―多分、無いです」
岩見は好き。キヨ先輩も好き。大切で、笑っていてほしい人達。けれどそれがどんな種類の好きかなんてわざわざ考えたりはしない。
恋情は普通の好意とは違うのだろうか。それともよく似ているのか。
皆はどうやって恋であると区別するのだろう。例えばそれが明らかに烈しくて、たとえようもなくて、誰であってもこれは恋だと気が付けるような仕組みになっていたりするのならば俺にも分かるだろうけれど、そうでなければ俺は気付かないままかもしれない。

「そうか。じゃあ好意を向けられても難しいよな」
分からないと告げた俺に、少しの間を開けて先輩はそう言った。いつも通りの穏やかな調子で、難しい顔で考え込んでいた俺をなだめるようにぽんぽんと優しく背中を叩く。

キヨ先輩は恋がどんなものか知っているのだろうか。
思って、尋ねようと開いた唇を結局何も発しないまま結んだのはなぜだったのだろう。


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