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背後の窓から差し込む西日が廊下を赤く染めている。目の前に立つ生徒は、視線を足元に落としたり俺の顔に向けたりという動きを散々繰り返してから「好きです」とやっとごく小さな声で言い終えたところだった。
ぎゅっと手を握りしめて俯いている。俺の肩ほどしか背がないから、そうやって下を向かれると表情は窺えなくなる。耳が真っ赤になっているのは見えるけれど。
「それで―、考えてもらえるかな?」
考える。何を。好きですと言われただけだ。顔も知らない、名前も知らない相手。
とはいえ、続く言葉が分からないほどまでは鈍くないつもりだった。
「付き合いたいってこと?」
「そ、そう……です」
「それは無理」
ぱっと顔が上がった。
「っな、なんで? 恋人はいないんだよね?」
「いないけど」
「じゃあ、試しにでも―!」
「そういうことはしない」
言い切ってしまってから、申し訳程度に悪いけど、と付け加えた。岩見からそうした方がまだマシと言われていたからだ。
俺の他人に対する言葉は冷たく聞こえることが多いらしい。せめて告白を受けたときくらいは出来るだけ優しく、と注意されたのは中学生のときだった。自覚がないからどう言えば優しくなるのかも実のところよく分かっていない。
出来るだけ、キツく聞こえないように声の調子なんかも注意した、つもりだったが、相手は赤い顔のままじわりと目を潤ませた。
泣かれるかと少し怯む。しかし彼はそのままじっと俺を見つめてから「わかった」と呟き、小さく頭を下げると走り去った。
一応、泣かせはしなかったということでいいだろうか。背中が角を曲がって消えるのを見送ってから、止めていた息を長く吐き出す。
あの人は、本当に俺のことが好きだったのかなと、ともすれば失礼にもなりそうなことをぼんやり考える。いや、疑ったわけではないけれど。でも、話したこともない人間を好きになるというのがどういうものなのか理解出来ない。話したことがないならつまり中身を知らないということだ。理想像でも出来ているのか? それなら仮に付き合ったとしても即座に振られそうだな。
こうして呼び出しを受けるのはごくまれな事象だったのに、新学期に入ってからそうでもなくなっていた。何か、そういう流行りでもあるのだろうか。幾度か繰り返しても、スマートな返事の仕方なんて分からないままだから毎回困る。早く前みたいに戻ってほしい。
ああいうやりとりは後味の悪さばかり残って苦手だ。
はあ、ともう一度溜息をついてからさっきの人が走り去ったのとは反対の方向へ足を進めた。
ワックスがかけられた床に濃い橙色の陽が落ちて光っている。つい最近まで、今くらいの時間は昼間と同じくらい明るかったのに、いつの間にか日没が早まってきたようだ。
普段は気にならない靴と床が擦れる音が小さく響くのを聞きながら、角を通り過ぎようとした視界に何かが映った。
無意識にそれが何か確かめようと視線を向けて、驚く。一瞬の、時が止まったような空白。
「――キヨ先輩?」
驚きが収まらないまま俺はぽろりとその名前を口にした。廊下の角を曲がってすぐのところに、とても見慣れた人が心底困り果てたような顔をしてしゃがみこんでいたのだ。
「……なに、してるんですか?」
「あ、いや……、ええと、」
視線を泳がせていた彼は、俺の問いかけに眉を下げて言葉を詰まらせた。どうにもばつが悪そうな表情だ。
どうしたのだろうと思いつつ、俺は振り向いたときのまま固まっていた体を動かして正面から先輩に向き直った。
「もしかして、体調悪いですか」
「ち、違う。元気……」
「なら、どうしたんですか」
何もなくて、こんなところで屈んでいることあるか? 彼がいつになくこちらを見ないので、視線を合わせやすくするために膝を折る。顔を覗き込むと、先輩はぎょっとして、それからすぐに意を決したように「ごめん」と言った。
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