My heart in your hand. | ナノ


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背中を砂で汚した学生服がドアの向こうに消えたのを見送って、くわえた煙草に火をつけた。息を吸うとすっとしたメンソールが鼻を抜ける。
吐き出した煙が真っ青な空に上っていくのをぼんやりと目で追った。

夏は終わりかけていた。衣替えの時期はまだだったが、風の強い屋上はすでに寒い。風にあおられて目にかかった髪を払い除けながら、柵に背中を預ける。
わざわざ出向いたのだから同類と言われるかもしれないが、どうしてこんなところで喧嘩をしたがるのだろうか。バカと煙は高いところが好き、と笑う岩見を思い出してなるほどなと納得した。

煙草のフィルターが赤く染まっている。唇を切っていたらしい。
舌をだして舐めてみたけれど口の中がすでに血の味で満ちていたからわからなかった。

「エスー」

重く錆びた音を立てて、ドアが開いた。そこからひょこっと覗いた頭に片手をあげて応える。

「やっぱ終わってた。調子はどうだい」
「余裕。お前は」
「俺? 一応大丈夫! でも見てこれ、このアザ」

こいつも絡まれていたな、と思い至って尋ねると、ひょいひょい軽い動きで傍に来た岩見は、いきなりべろっと制服と中に着ているシャツをめくって俺に腹を見せた。
赤紫みたいな色をしたでかいアザが出来ていて、眉を寄せる。

「……なんか棒みたいな痕がくっきりなんだけど」
「いやーん、そんなに見つめないで」
「痛いの」
「うん」

ふざけた反応をする岩見を無視して軽く腹をつついて尋ねると、あっさりと肯定してみせた。

だろうな。

「湿布貼っとけよ」
「あーい」

素直に頷いたのを確認して、短くなった煙草を地面に押し付けた。汚れたスラックスを軽く叩いて立ち上がる。


「エス、俺今日は手伝い行く日だから」
「ん。」

こいつの家は母子家庭で、岩見は少しでも母親の負担を減らそうと知り合いの店で働かせてもらっている。中学生なので、アルバイトではなく手伝いという名目ではあるが、ちゃんとまともなバイト代を出してくれるのだから名目などどうでもいい。その人がいてくれて岩見にとっては本当に良かったと思う。

「一人で帰れる? 寂しくない?」
「うぜえ」

軽く尻の辺りを蹴ると、岩見は大袈裟に痛がった。かなり手加減したから痛いはずがない。

「エス。血、顎まで垂れてるぞ」
「……あー」
咄嗟に袖で拭う。学生服の黒がわずかに濃くなって、ああまた汚してしまったと後から思った。

「うへえ、痛そう」
「お前が言うな」
「そうでした。でも俺、今回顔は殴られてないよ! エスは折角イケメンなんだから、顔殴られないようにもっと気を付けたら?」
「顔の造りなんか、関係ねえだろ」
「いやいや、あるって。エスに喧嘩売ってるやつの中には、絶対、イケメンムカつく! って奴がいるね」
岩見はやけに自信満々だ。なぜか誇らしそうに胸を張っているのを見ながら欠伸が出た。切れているのは唇の右端だったようでピリッとした痛みが走る。


弾むような足取りの岩見の背中を追って薄暗い階段を降りていく。
俺も岩見も、時折すれ違う人に見てはいけないものを見たかのように目を逸らされることにはとっくに慣れていた。


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