My heart in your hand. | ナノ


▼ 22

空気にうっすらと火薬の匂いが混じっている気がしたのはバスに乗り込む前までだった。今、嗅覚が捉えるのは、昼間の太陽で熱された草の青い匂いに変わっていた。


最寄りのバス停で降車して、緩やかな上り坂を歩く。左右の林は真っ暗で斜面になっているが、旅館までの一本道は舗装された広めの道路なので、あまり危険でもないし歩きにくくもない。アスファルトと靴が擦れる音が二人分響く。
はしゃぎ疲れたのか、あやめちゃんはバスでの短い道中で眠ってしまったのだ。今はキヨ先輩の背中の上。降りるときに先輩が軽く揺すって起こそうとしたけれど、起きる様子はなかった。
眠りの深い子だから、と呆れた風に言ってみせる彼は優しい表情をしていた。

祭りのざわめきが耳に残っているからか、この辺りの静けさが目立って感じられた。とはいえ、もちろん完全な静寂というわけではない。虫や、名前も知らない鳥の鳴き声が聞こえてくるし、葉擦れの音もする。

「ハル、疲れたか?」
なんとなく落ち着くそれらを聞きながら歩いていると、ぼんやりした様子が気になったのか、キヨ先輩に声をかけられた。
ここに来てから疲れた? と聞かれることが多いように感じるのは、恐らく気の所為ではなく、慣れない場所にいる俺を気遣ってくれているからだろう。それくらいのことは俺にも察せられる。
「大丈夫です。―花火、綺麗でした」
「そうか。楽しめたなら良かった」
言外に感謝を込めた台詞に、前を向いたまま先輩が言う。

「はい、楽しかったです」
「うん。ただの地元の花火だけど、ハルと見られて嬉しかった。また一緒に行こうな」
最後の言葉に、思わずちらりと視線を送る。穏やかに微笑んでいるその表情を見て、俺はまた前に向き直ってから肯定を返した。自分で思ったより、出た声は小さかった。


▽▽▽

部屋で一息ついたところで、スマートフォンが着信を知らせる。

『やあやあ! 元気かな、マイハニー』
通話状態にした途端に聞こえてきた声がいつものふざけた愉快げな口調に合った楽しそうなものだったから、つい、普段ならなんとも思わないそんな第一声に笑ってしまった。

「ん、元気。岩見は?」
『そこは元気よダーリンって言ってほしかった。俺も元気ですよ』
「言うわけない」

つれないなぁ、と感情の籠もらない口振りで言う。岩見の声は、やや高めだが語尾の辺りに甘さがあるように思う。ふわっと柔らかく、軽薄そうにも優しげにも感じられるそれは、機械越しだとほとんど伝わらないから、俺はいつも岩見と電話で話すと小さな違和感を覚えるのだ。

日向の匂いがする布団に体を預ける。光沢のある濃い茶色の天井に、間接照明が光を投げかけている。
「結局、海はどうなった? ギリまで悩んでたろ」
『行った。何も考えずに遊んできました、楽しかったです』
「それはよかったです」
『エスはどうなの? 旅館ってどんな感じー? 委員長と一緒、楽しい?』
「旅館はすごい良い雰囲気。周りも綺麗。キヨ先輩と、学校より一緒にいるからちょっと変な感じだけど、楽しいよ」

『そっかー。エスが嬉しそうで俺もハッピーになるね!』
岩見の声を聞くと、張っていたわけでもない気が緩む感じがする。

祭りに行って花火を見た話をすると、岩見は弾んだ声で嬉しそうに応じた。そして代わりのように自分にあった出来事を話す。海が楽しかったと言うのは本当らしい。友人たちの名前が次々に出てくる。

俺も同じだ。岩見が楽しそうなら嬉しくなる。
岩見のように言葉に出したりはしないけれど。


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