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部屋にはいつの間にか布団が一組敷かれていた。宿泊客というわけでもないのに申し訳ないから、明日からは場所を聞いて自分でやろうと思う。
障子の向こうから差し込む月光は意外なほど明るい。少しそれを眺めてから間接照明をつけた。温もりのある色の光は、やんわりと室内を照らすが全体をはっきりさせるには少し弱く、四隅に影が踞っていた。
落ち着く明るさだ。
キヨ先輩は、自室に戻ったと思ったら浴衣を手にこちらの部屋に来た。俺が襖を開け放したままにしているので、普通に中に入ってきてくれる。
「ハル、せっかくだしこれ着ない? 俺のだけど、サイズは大丈夫だろ」
「俺、浴衣の着方知りません」
恥ずかしながら。着る機会がなかったから仕方ないと自分の中だけで言い訳をする。あ、でも寝間着の浴衣は祭りで着るような浴衣とは違うのだろうか。その辺りもよく分からない。
「じゃあ俺が教える」
「有難いですけど、面倒じゃないですか?」
普通に寝間着を持ってきているしそれでもいいのではないかと思ったが、先輩は真剣な顔をして首を横に振った。
「いや、俺が簡易でもいいから浴衣を着たハルを見たい。絶対似合うから」
もう一度、絶対と繰り返される。そんなに言うほどだろうか。確かに洋風より和風の方がまだ様になる見た目だとは思うが。それは日本人だから当然ではある。
先輩こそ見目はどことなく異国情緒を感じさせる人だが、和装が似合うのではないだろうか。
珍しいくらいの押しの強さにそのまま圧されて頷くと、キヨ先輩は静かに「よし……」と手を握った。そんなにか、とちょっと面白くなってしまった。
「まあそうは言っても、これは寝間着だから帯とかも適当でいいし簡単だよ。教えるほどでもないけど今教えようか。ハルの風呂上がりに俺が行くのも変だしな」
「えっ」
「ん?」
話しながら黒の浴衣を広げた先輩は、何かおかしなことを言ったかというように不思議そうに俺を見る。
「先輩、一緒に入らないんですか?」
風呂上がりに行くとか、今とか、一緒に入るのだとしたらおかしなフレーズだ。
二人で入るものと、考えるまでもなく思っていたのだが、キヨ先輩は違ったようだ。驚いた俺に、先輩の方も驚いたらしかった。目を見開いて、じっと見詰められる。
「、え、だってそれは……。ハル、俺と一緒でいいの?」
「むしろなんで一人で入るんですか。ちょっと虚しいでしょう」
せっかく先輩がいるのに。あの立派な温泉に入るとき、俺は多分、絶対に嬉しくなるのに、一人じゃ無言でいなくてはならないではないか。共有してくれてもいいと思う。いや、先輩は実家なのだから慣れているだろうけれど。
ここに滞在させてもらう間、何度か入浴は出来るだろうが、最初から一人で入るのは残念だ。
きゅっと眉根を寄せた俺に、彼は少したじろいだ様子を見せた。
「……キヨ先輩は、俺と一緒に入るの嫌ですか」
俺はどうとも思わないが銭湯とかそういった、他人と同じ風呂に入るのが無理だという人もいるらしい。それとも先輩は旅館育ちならではのなにか嫌になるようなことでもあったのだろうか。あとは単に知り合いと一緒は嫌とか?
ともかく何か理由があるならば無理強いは出来ない。そう思い直して問いかける。
数秒の間の後、キヨ先輩は首を横に振った。
「いや―、嫌じゃないよ。うん、一緒に入ろう」
ちょっと意を決して、という雰囲気があるのがやや気になるが、嫌ではないと本人が言うのだから大丈夫だろう。先輩は、そんな嘘をつかないように思うし。なので俺は素直に喜んで、「ありがとうございます」と答えた。
先輩が微苦笑を浮かべる。悪感情らしいものではなくて、包容力とか慈愛とかそういうものを感じさせる、ときどき見せる表情だ。なんとなく、自分が彼に甘えでもしたような気分になった。いや、甘やかされた気分という方が正しいか。
恥ずかしいようなそわそわする気持ちになって、俺は誤魔化すように「早く行きましょう」と立ち上がった。
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