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数寄屋造り風のその旅館は、周囲を木々に囲まれ静謐な雰囲気を漂わせていた。
キヨ先輩の後ろに付き従って、延々と続きそうな長い廊下を進む。軋みが少ないのは手入れのお陰なのだろうか。奥には普通に、先輩とご家族が暮らしているというが、この建物を家と呼べるのは羨ましいなと安易に思う。
案内を兼ねて旅館の方から入ったが、住居は別棟だった。本館とは渡り廊下で繋がっている。飴色の廊下が途切れると木戸があって、そこを抜ければキヨ先輩たちの生活空間らしい。
ここは居間でこっちは姉夫婦の部屋、という風に説明しつつ奥に進んだ先輩は、突き当たりの右側にある部屋を指して「ここ俺の部屋」と紹介し、軽く中を見せてくれた。
壁に作り付けの本棚があるのに俺の目が行くと、彼は自分で作ったのだとあっさり言う。しっかりした作りに見えたので驚いた。本当になんでも出来るな。
「ハルに使ってもらうのは、こっちの部屋な」
感心しているうちに、くるりと振り返ったキヨ先輩が向かいの部屋の襖を開いた。
室内から風が吹き抜けて、風鈴の澄んだ音色が鳴った。ふわりと藺草の香りが鼻腔をくすぐる。欄間の透かし彫りの、椿か何かの花が特徴的な部屋だ。
「―客室じゃなくてもこんな風なんですか?」
足を踏み入れたその部屋は、床の間に生け花まで飾られていた。生活空間というよりは旅館の一室に見える。生花って普通の部屋でもあるものか?
俺が縁遠いだけかもしれないが驚いて尋ねると、先輩は苦笑して三分の一程だけ開いていた障子を全開にした。窓の外には幹の太い立派な木があった。それが上手く日差しを遮って、畳に丸く木漏れ日を落とす。
「ここは普段使ってない部屋だから、花も風鈴も多分姉さんだ。ハルの話したら、やたら喜んでたから」
「あ。そう、なんですね」
そうか。では、これは俺を歓迎するために用意してくれた部屋なのだ。それが一番有り得ることなのに、考えもしなかった。
キヨ先輩のご両親とお姉さんは先程、わざわざ俺を出迎えてくれたから挨拶は済んでいる。お姉さんはきりりとした着物の似合う人で、ありがとうと笑う目元がキヨ先輩とそっくりだった。
鮮やかな花を眺めながら、後でお礼を言っておこうと思った。
軽く荷物を整理しながら先輩と話していると、廊下を走るような軽い足音が響いてきて、勢いよく襖が開いた。
小学生くらいの女の子と目が合う。
「こら、あやめ。急に入ったら失礼だろ」
え、と戸惑いの声を上げると、先輩が立ち上がって、そう窘めつつ少女の頭に手を置いた。
「だってさっき帰ってきたらね、お兄ちゃんのお友達イケメンだったわよって、お姉ちゃんが。だから走ってきたのよ、あやめもイケメン見たいから」
「姉さんもどうかと思うけど、お前もなかなかだぞ、あやめ……。ハル、驚かせてごめんな。これは妹。ほら、あやめ。御挨拶」
「鷹野あやめです、小学三年生です! ようこそいらっしゃいませ」
元気いっぱいの自己紹介のあと深々と頭を下げられて、ぽかんとして固まっていた俺も急いで頭を下げ返した。
「初めまして、江角晴貴です。お世話になります」
何も考えなかったら、小さい子に対するものにしてはおかしいくらい丁寧な挨拶になった。しかし幸い彼女はそれを変には思わなかったようで、目を輝かせて喜色を浮かべる。
先輩はおかしそうに笑いながら「よく出来ました」と女の子の頭を撫でた。
夏休みのプール帰りらしいあやめちゃんを、先輩は長居させずにシャワーに行ってこいと部屋から送り出した。そして「ごめんな、ハル」と冷えた麦茶のグラスを机に二つ置きながら少し眉を下げる。
小柄な少女は、短い間にいろいろと質問したりお話をしたりと元気いっぱいではあったが謝られるようなことは何もなかったので、俺は首を振って謝罪を退ける。
「妹さん、小さいんですね」
そちらの方が驚きの度合いは大きかったように思う。妹もいるのはこの間聞いて知っていたが、勝手に俺と同じか中学生くらいだと思っていたのだ。
「うん。遅くに産まれた妹だから、つい家族皆して甘やかしちゃうんだよ。わがままになるんじゃないかって心配なんだけどさ」
妙に真面目なふうにそんなことを言うから、つい笑ってしまった。あやめちゃんは利発で聞き分けのいい印象だった。不要な心配だと思うが、それほど妹が可愛いのだろう。
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