My heart in your hand. | ナノ


▼ 10

夏空の青は濃くて深い。遠くに大きく広がる入道雲以外に空を覆うものはなく、見上げた太陽は眩むような白金をしていた。

線路沿いの景色は工場地帯や民家の並びから抜け出して、ここ三十分程の間、延々と緑の絨毯が続いていた。田んぼの稲が均一な色を並べているのはとても綺麗だ。
俺の他には、杖を手にした老婦人が一人だけの古びた電車は、目的の駅に滑り込むと静かに停車した。
さほど多くもない荷物を手に降り立ったホームは狭く、振り返れば大きな山が眼前に広がっていた。

無人の改札を抜けて、きょろきょろと周囲に視線を巡らせる。地元よりも増して緑が多い。田舎と言われて想像する風景そのもの。長閑だ。

「ハル」
ついしみじみとして意識を飛ばしていたから、約二週間ぶりに聞く声を脳が一瞬空耳として流してしまいそうになった。我に返って振り向いた先に、目当ての人物を見つける。
ひらひらと手を振ってこちらに歩いてくるキヨ先輩。少し短くなった茶色の髪は、明るい日差しの下では蜂蜜色に光って見えた。

「キヨ先輩、お久しぶりです」
「久しぶり、ハル。遠かっただろ。疲れた?」
先輩の笑う顔を直接見るのも久し振りだ。
「大丈夫です。座ってただけですし―窓の外見てたから楽しかったです」
「そうか、良かった。言ってた通り田舎だろ?」
「綺麗なところだと思います」
俺の答えに彼は目を細めて優しい表情をした。流れるように俺の手からバッグが取り去られる。あまりにも自然な動作に、されるがままバッグから手を離してしまったが、すぐに慌てて先輩に荷物を持たせるわけにはいかないと断ろうとした。が、「いいから」とごく柔らかく遠慮と反論を封じこめられてしまった。大人しく預けたままにする。

「ここからバスに乗って、上まで行く」
先輩が指し示したのは左右を木々に覆われた1本の道路。山の入りだ。吹き付けてきた風は熱く、濃い緑の匂いがした。

少し待って、やってきたバスに乗り込む。車内には強く冷房がかかっていて、少し肌寒いくらいだった。奥の方の席に並んで腰掛ける。乗客は俺達以外に無かった。
「ハル、課題終わったか?」
「数学以外は、大体」
「偉いな。じゃあここにいる間に全部済ませよう。俺、教えられると思うし」
「―キヨ先輩の勉強は、大丈夫なんですか?」

キヨ先輩は、勉強に関して常に余裕ありげに見える。多分三年生が必死に勉強をするであろう夏休みに、こんな風に俺を家に呼んでくれているし。指定校推薦がもらえるとは聞いているが、受験生である事実に変わりはないのに。勉強の邪魔にはなりたくない。
キヨ先輩が教えてくれるなら、それはもちろん俺にとっては有り難いことだけれど。

じっと見つめると、向こうからも視線を合わせられて、それから先輩は見たことないような笑顔を作った。にやっとした、悪戯っぽいというか自慢げというか、とにかく普段ならしない表情だ。
少し驚く。
「試験科目、得意教科だから焦りはないな。もちろん、ちゃんと勉強はしてるよ。かかりきりになってないだけ」
「キヨ先輩の得意教科って?」
文系だと自称するしクラスもそうらしいけれど、彼の期末考査の成績は満遍なくかなり優秀だ。夏休みに入る前に成績表を見せてもらった。順位は一桁代ばかりだったし、全教科得意みたいなものではないだろうか。
「英語と国語、あと日本史」
「―あ。そういえばその三つ一位でしたね……」
得意科目はまるきり俺と同じなのに、基準が違いすぎる。そしてあのとんでもない成績表を思い出したら、彼の言葉にかなり信憑性が出た。確かに焦って勉強漬けになる必要はない成績かもしれない。

「じゃあ、数学教えてもらってもいいですか?」
「喜んで」
ありがとうございます、と返す。キヨ先輩はずっとにこにこしていて、つられているのか何なのか、俺の頬もいつもよりずっと緩んでいる気がした。
これからしばらくはいつでも先輩と話せて、先輩を見ていられる。嬉しいから仕方ないのかもしれない。


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