My heart in your hand. | ナノ


▼ 7

暦が八月に変わってしばらく経った。夕刻になっても外は昼間と違わぬ明るさで、日当たりのいい俺の部屋は照明を点ける必要もない。
行き詰まった数学の課題にうんざりして、ベッドに倒れ込んでから五分ほど。室内はカチカチと時計の動く音だけだが、窓の外では未だに蝉が鳴いているのが聞こえる。本格的に暗くなる頃まで鳴き続けるから、もう耳が慣れてしまった。

天井に向かって伸ばした腕に痣があった。この間の怪我はもう治っている。これはまた、つい三日ほど前に出来た痣だ。ガラの悪い同年代は、そうする義務でもあるのかというくらい顔を合わせると必ず絡んでくるのだ。治安がおかしい。
中学のときは、制服で同じ学校かそうでないかが分かったが、今は皆私服なので、なんで相手が俺を知っているのかも分からない。変な噂でもあるのではないだろうか。
幸い岩見は外を歩いていても喧嘩を売られたりすることはないらしいから、その点は安心だ。

暑い時に暑苦しく絡まれるのは非常に面倒くさいので、元々そこまで外出をする方でもない俺は、すっかり出不精になってしまっている。岩見の家に行くくらい。
そういうわけでシンプルに暇だ。課題ばかりやっていられない。

ごろりと寝返りをうって壁の方を向く。なんの変哲もないただのオフホワイトを意味もなく見つめながらぼんやりする。

――このところ、何もしないでいるとふとキヨ先輩を思い出す。
俺に大事にされている岩見が羨ましい、と言ったときの彼の表情。瞼を伏せると鮮明にそれが思い出せて、鳩尾の少し上辺りが縮むような感覚がする。
先輩は忘れてと言った。俺はそれに頷いた。けれどそう簡単に忘れられるものではなくて、先輩があんなことを言ったのはどうしてだろうと思考を巡らせてしまう。
分かるようで分からない。掴もうとしたら消えてしまうみたいで、もどかしい。

枕元のスマホを手にとる。通話履歴に並ぶのは岩見と、時々陽慈の名前。先輩の番号は履歴のずっと下になってしまった。時々メッセージのやり取りはしているけれど、電話はしない。先輩の声をずっと聞いていなかった。
ここに先輩がいたら、ただ座って話しているだけで楽しいのに。声を聞いて、笑う顔を見たい。
そう思って、それから少し首を傾げた。俺は、先輩に会いたいのだろうか。

目の前に掲げたスマホを握り直した時、手中のそれが突然震えだした。ぎょっとして取り落としかけ、危うく自分の鼻に激突させてしまいそうになった。
慌てて掴み直し、着信画面に切り替わったのを確認する。表示されていたのは、一瞬前に声を聞きたいと思った人の名前だった。あまりのタイミングに、まるで悪戯が見つかった子供のようなばつの悪さを感じて、鼓動が跳ねる。
勢いよく上体を起こして、通話ボタンをタップした。少し緊張する。

「はい」
『あ……、ハル? 今大丈夫か?』
一瞬の間の後、耳に馴染んだキヨ先輩の声がした。そわそわしていた気持ちがふわりと落ち着く。自分の口角が少し持ち上がるのが分かった。

「大丈夫です。お久しぶりです、キヨ先輩」
『うん、二週間ぶりくらいだな。元気か?』
「元気ですけど、暇に殺されかけてます」
『あれ、そうなのか。何か、予定とかは?』
「一つもないですね」
手持ち無沙汰に、サイドボードの上で乱雑に積み重なった本を整える。
はっきりした答えに先輩が笑った。笑顔が簡単に想像できる。

『じゃあさ、ちょっとうちでバイトしねえ?』
「バイト? ですか?」
『うん。えーと俺の家の話ってしたっけ』


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