▼ となり。
岩見視点で晴貴と過ごす休日の話。
ひゅうう、と高く風が鳴いている。窓際近くに植えられた木はざわざわ揺れていて、時折葉や小枝がガラスにぶつかってくる。台風が近付いているらしく、今日は朝から風が強い。
鈍色の雲で覆われた空は一片の青も見当たらないというのに、エスは先ほどから窓辺に座ってずっと空ばかり見ている。
俺がキッチンに立ったときは本を読んでいたはずなのに、いつの間にそんな状況になったのだろう。
膝の上には開きっぱなしの本が置かれている。何をそんなに飽きもせずに見つめているのか。聞かない限り俺には分からない。
同じように空に目を向けてみたところで俺はああ曇りだ、頭が痛くなるかもしれないと憂鬱な気持ちになるだけだから。
こういうの、感性とかって言うんだろうか。俺には乏しいもの。エスは綺麗なものを見つけるのが得意だけれど俺は汚いものにばかり目がいく。
汚れたボールや泡だて器なんかを洗って、焼きたてのスコーンを皿に盛る。プレーンと抹茶、チョコチップ。二人分の紅茶を淹れてからリビングに行く。
エスはすっと首を巡らせてこちらを見た。いい匂い、と目を細めるのを見て俺は口元が綻んだ。
「何見てたの?」
「ん―、雲の色が違うなと思って。あと流れるの速い」
どことなく幼さを感じることを真面目に言われる。ああ、なるほどと俺は頷いた。背を屈めて脚の短いテーブルに紅茶を置き、皿も運んでから俺も同じように窓の外を覗いてみた。
確かに風に押されていく雲の流れはとても速い。幾重にも重なったそれは、青っぽかったり黒っぽかったり、更には赤みを帯びているようなものまであった。
一瞬も止まらずに流れていくから、一つのところを見ていると入れ替わり立ち替わり色が変化しているようだ。ああ、これを見ていたんだな。ふわりと穏やかな気持ちになった。
俺の感性は乏しいかもしれないけれど、エスが見つけて教えてくれたものを綺麗だと思ったり興味深いと思う心はある。
「すごいね」
口から漏れた感想はとてもちゃちなものだったけれど、俺の親友は頷いて笑ってくれた。
▽▽▽
お茶の時間を終えるとエスはソファーに座って、また本を読み始めた。課題も終わり、夕食を作り始めるには早すぎる。ぽかりとできてしまった空白の時間。
エスの隣に座ってテレビをつけた。ぱっと映った画面はどうやらバラエティの再放送らしかったけれどろくに確認もしないままチャンネルを変える。
バラエティとかお笑いとか音楽番組とか、全然見ないからクラスメイトに「えっ、知らないの? まじで?」とかって驚かれたりする。
エスといる分には全く困らないから別にいいのだ。静かな音楽が流れるドキュメンタリー番組でチャンネルを変える手を止める。リモコンを置いて代わりに膝を抱えた。
テレビの音しかしない静かな空間。ほっとする。
しばらくそのまま過ごして、座っていることに疲れたからエスの片膝を拝借することにした。横になって、下からちらりとエスを窺う。黒い目は一瞬不思議そうに俺を見たけれど、何も言わぬまま、また文章を追いはじめる。
エスの読む速度は結構ゆっくりだ。さっさと流していくのではなく、噛み砕いて呑み込んでいくような読み方。好きな表現やセリフを見つけたら少し止まる。見ているだけで分かるそんな様子がなんだか好きだなと思うのだ。
ふふっと小さく笑ってから視線を外しテレビに意識を向けた。
「―岩見。岩見、起きろ」
ぐにっと頬を引っ張りながら呼びかけられる。俺ははっとして目を開けた。
あれ、いつの間に瞼を閉じていたんだろうと不可解な気持ちになる。
「寝てたぞ」
「……ええー、もう暗いじゃなーいのー……」
俺の考えていたことが分かったのか、エスがそう言った。だよね、寝てたね俺。軽く時を駆け抜けたような気分だよ今。
室内はぼんやりと薄暗くなっていて、時計は夕方といっていいのか分からない時刻を指している。エスの腿を枕にしたままだということに気が付いて体を起こす。
「な。これ読み終わってから暗いこととお前が寝てることに気付いた」
びっくりだ、とでも言いそうな表情で頷くエス。
「暗いまま本読んだら目が悪くなるわよって母ちゃんいつも言うとろうが! この子は本に集中するとすぐに時間忘れちゃうんだから!」
「でもお前の頭乗ってたし」
我ながらうざったいおかん気取りの言葉に、それでもエスは叱られた、しまった、という顔をする。子供か。そのあとほんのすこし唇を尖らせてそんなふうに返され俺はさっとソファーの上に正座をした。
「それに関しては謝罪する所存!」
こんな長時間膝を拝借するつもりはなかったというのに寝てしまったのは不覚。まあエスの言葉は単なる言い訳であって、気にしていないことは知っているのだけれど。親しき仲にも礼儀あり、である。
今この言葉を引用するのは少し違うかもしれないと思った。
「いや、別に謝罪はいらない。つーか、岩見、買い物行かなきゃって言ってただろ。それで起こしたんだけど」
あ、話変えた。苦笑してから、俺も変わった話の方に思考を向ける。
冷蔵庫の中には夕食を作れるほどの材料はない。そのうえこんな時間では手間のかかるものは作れない。ああもう、どうして眠ってしまったのだろう。
「うん、行かなきゃ。エス、何が食べたい?」
出来ればすぐ作れるものでお願いします、と付け加えるとエスは眉を寄せて首を傾けた。
困った時、わからない時、思考を巡らせる時など、こんなふうに首を捻るのがエスの癖だ。教えたら絶対直そうとするだろうから指摘しない。ちょっと可愛いからいいだろと俺は思っている。
「どんなのが時間かかってどんなのがかからないのかわかんねえ」
「あっ、そっか。そうだな。んじゃ、何も考えず食べたいものをどうぞ」
「んん……、あ、野菜炒め」
「任せたまえ!」
野菜炒め。個人的に花丸回答だったので俺はよしよしとエスの頭を撫でた。怪訝な顔で払われてしまった。
「よし、じゃあ行ってくるわ」
「俺も」
「えっ? 一緒に行く?」
「おー。荷物持つわ」
心優しい親友の申し出を有り難く受けることにする。そんなに買い込む気はないけれど、一緒に買い物をするのはなんとなく楽しいと思う。俺たちはカードキーとスマホを持って部屋を出た。
食材でもなんでも売っているスーパーのような購買は寮からも校舎からも独立したところにある。生暖かく湿った風が吹くなか、そこを目指して二人で歩く。髪の毛が掻き乱されてぼさぼさになってしまう。休日でセットをしていなかったので、特に支障もないけれど頬に毛が当たると痛い。
「なんかさあ」
「うん」
「風強くて空気生あったかい日って腹んなかざわざわしね?」
「今日みたいな日ってことか」
うんと頷く。煩わしそうに眉を寄せているエスがこちらを見た。ゆるりと傾げられる頭。
「ちょっとわかる」
「ね!」
共感を得られたことが嬉しくて俺は笑った。エスも釣られるように少し笑う。
ああ、やっぱりエスの隣はとても心地がいいし安心する。エスが居てくれてよかったなあとこれまでに何度も繰り返してきたことをまたしみじみと思う。
「―俺は君がとても好きだよ」
「知ってる。なに、突然」
「ふふふ。なんとなくー」
「ふうん?」
ちらりと横目で俺を窺ったエスは平然とした口調でいつものように応じてみせる。エスがそうやって何でもないように受け入れて、知ってるって返してくれることに俺はいつもほっとするのだ。
目を閉じて深く空気を吸う。ここはどこよりも息のしやすい場所。
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202/210