My heart in your hand. | ナノ


▼ 翠雨を眺む

風紀副委員長視点のキヨの話
※one heartとtwo heartの幕間のようなもの。



昼過ぎから降り始めた雨は止む気配を見せぬまま放課後の今も窓に水の筋をいくつも作っている。それぞれが担当の仕事に集中している風紀室内は、比較的人がいようとも静かなものだ。時折聞こえる話し声も作業の妨げにはならない。

俺は生徒会へ提出する報告書の最後の一枚を完成させてから漸く、ずっとパソコンに向けていた視線をあげた。強張った首と肩をぐりぐり回すと若者の体とは思えない音がした。

まだ若いのにデスクワークで凝り固まっちゃうなんていやだなあ。

とりあえずは人数分のコーヒーでも淹れようか、と席を立つ。風紀室の奥、右側の扉は給湯室で左側はお説教部屋だ。もっとも左の個室をお説教部屋だなんて呼び方をしているのは俺だけで、他の皆は確か尋問室だとか調教室だとかそれっぽく物騒めいた呼び方をしている。


ふんふーん、と最近テレビでよく聞く音楽をハミングしながらインスタントのコーヒーを淹れる。本格的なものには叶わないかもしれないけれどインスタントだってなかなか美味しいから俺は好きだ。

お湯を注いでふわりと漂う独特の薫りに機嫌をよくしながら給湯室から出る。大きめの盆にのせたカップを「休憩しなよー」と声を掛けながら皆に手渡し、礼儀正しいお礼を言われる。
自席に戻って一口コーヒーを啜ったところで扉が開いた。さっと視線がそちらに向くのは条件反射だ。

ごくたまにではあるが、助けて! と叫びながら飛び込んでくる子がいたりするから、すぐに動けるように。けれどまあ、今回はそんなこともなく部屋に入ってきたのは我らが委員長、鷹野清仁だった。

委員たちが口々に挨拶をするのに応えながら奥まで歩いてきた彼にひらりと手をあげて見せる。

「見回りお疲れー」
「おう。柊、これ顧問からお前にプレゼント」

口許に笑みを乗せた鷹野は片腕に抱えていた紙の束をばさりと俺の前に置いた。やっぱりな! 嫌な予感がしたんだよ、お前の顔を見た瞬間!
じとりと鷹野を睨んでから書類を確認する。三日前に俺が早くこちらに回してくれと頼んだ書類だ。あの顧問ちんたらしやがって、と思わず柄の悪い舌打ちがこぼれた。
それにははっと声を上げて笑う委員会仲間兼友人。恨みがましい目で見てしまうのも仕方がないと思う。

これをパソコンに出力して確認して印刷して明日の各委員会が終結しての会議に間に合うように冊子にしなければならない。
頭の中で時間を計算するとどう考えてもいつもより一時間は帰るのが遅くなると出た。

「あーくっそう、あの腐れ顧問」
「まあそう言うなよ。俺も手伝うし」
「鷹野、自分の仕事はいいの?」
「もう大体終わってる」

頷いた鷹野は手を伸ばして書類を半分持つと自席に着いた。ありがとうと感謝の言葉を告げてから俺は仕事に集中することにした。


▽▽▽


仕事を終えた委員たちが冊子作りを手伝ってくれたお陰で思っていたよりも随分早く作業は終わった。ありがとう委員たち。そして顧問は今度会ったら膝カックンをしてやる。絶対にだ。

「よーし、終わり終わり! 飯行きますかねえ」
「あー腹減った」
「副委員長、今日の日替りなんでしたっけ」
「え、しらないよ。委員長―」
知ってる? と続けようとして振り返った先に面白いものを見た。鷹野がスマホに視線を落としてやけに嬉しそうな顔をしているのだ。というかあれはにやけていると言っていい。その珍しさに俺の好奇心はいたく刺激された。

なぜなら俺の知る鷹野という男は誰かの言葉に笑顔を見せこそすれ、あんな風に堪えきれないといった様子で笑みを溢すような人間ではないからだ。いそいそと手を動かしているのは返信でも打っているのだろう。相手は誰だろうか。

「鷹野、鷹野。どうしたの?」
「は? 何がだ」
唇を持ち上げながら声をかけると鷹野はさっと顔をあげた。真顔で何が? とか言っちゃって、気付かれていないとでもお思いか。甘い!

「すごい嬉しそうな顔してたから。誰かからメッセージでも?」
にこっと害のなさそうな笑みを意識して笑いかける。失礼なことに彼はそれを見て渋面を作った。

「その胡散臭い笑顔やめろよ。―ハルから連絡来ただけ」
胡散臭い!? いや、それよりも突っ込みたいことが二点ほどあったので遠慮なく聞くことにした。
「えっ、ハルって誰? あとお前の顔、ただ連絡来ただけって感じじゃなかったけど」

何かいいことが書いてなかったらあんな風なリアクションにはならないと思う。

「江角晴貴。この間偶然会って仲良くなった。内容は教えない」
もういいだろ、とそっぽを向いた鷹野はスラックスのポケットにスマホを押し込むと鞄を持ってさっさと立ち上がった。
えっ、ちょっと待って。江角晴貴って、俺が風紀に勧誘してきれいさっぱり断られた外部生二人組の片割れの、あの子だよね?

脳裏にこちらを真っ直ぐに射抜くキツそうな目の持ち主が浮かぶ。その江角くんと鷹野が仲良くなったというだけでも驚きなのに、彼が鷹野をあんな顔にする何を送ってきたのだろう。
からかいを超えてメッセージの内容が気になってきた。

あ、そういえば身体測定のときの見回りも手伝ってくれたんだっけ。あれは同じクラスの岸田が頼んだと思っていたけれど実際は鷹野が頼んだのかな。

とっくに委員たちは食堂に向かって室内には俺たち二人だけだ。窓の戸締りを確認する鷹野を見て、俺も慌てて重要書類の入った引き出しの鍵が閉まっていることを確かめて回った。
電気を消して施錠し、並んで静かな廊下を歩きだしても俺の頭の中は先ほどの鷹野の言葉で埋まっていた。


「―なんっか、珍しい。てか、不思議。どう考えても」
「何のことだ?」
食堂で席に着き、注文も済ませたところで、俺は自分の思考にそう結論付けた。鷹野が不思議そうにこちらを見る。少し伸びて目にかかった前髪はなんとも透明感のあふれる薄茶で、照明の光が表面に踊っている。染色ではこうはならない。

「鷹野があんな顔するの」
「あんなって? 俺、変な顔してたか」
「いや、めっちゃ嬉しいって顔。江角くん、そんな気に入ってるの?」
俺がそう言うと、鷹野はぱちりと音がしそうなほど大きく目を瞬いた。それから考えるように視線を宙にやる。

「まあ、気に入ってるのは最初から」
「まじで? 最初って、あの時鷹野、超見下した目されてたじゃん」
真顔で鷹野を見下ろした江角くんは、あの時完全に鷹野を自分に喧嘩を売ってきた奴らと同等のクズとでもいいたげな目をしていた。
それで気に入るってなかなかだと思う。唖然として返すと鷹野は軽く一度頷いた。

「あれは俺が失言したからだろう。それに、岩見のことすごく大事に思ってるんだなって感心した」
「まあそれは、うん」
「潔くて、自分の非をはっきり認めるし」
彼のことを思い出しているのか、鷹野が随分優しい顔をする。慈しみ、みたいな表情だ。

「礼儀正しくて、気遣い出来るし、素直ではっきりしてる」
まだ続いた。べた褒めじゃん、と言おうとしたら鷹野はこれまた俺が見たことのないはにかむような笑顔を浮かべて「可愛いんだよ、ハルは」と結んだ。
俺はしばし言葉を失ってしまう。

なんだ、その甘い声は。

それ、あれじゃん。気に入っているのかに対する答えのつもりかもしれないけど、気に入っているというよりは――いや、気に入ってるっていうのも広義では当て嵌まるだろうけど、あれじゃん。

「……鷹野。お前、それは―、こ、ここ。こっ」
「鶏か?」
「違う。―それは、世間一般で言うところの恋なのではないでしょうか」
咳払いをしてから、食堂に満ちるたくさんの音に辛うじて消されてしまわないくらいにひそめた声とともにテーブルに両肘をついて少し身を乗り出す。
風紀委員長が恋をしたなんて話を誰かが聞きつけたらそれは尾ひれ背びれだけでは飽き足らず胸びれに腹びれまでくっついて校内を駆け巡るだろう。

そういった配慮をもってしての小声に対し鷹野は何の表情の変化も見せなかった。それはどういった感情から来る顔なのか俺に推し量ることはできない。力を込めてその目を見返すと、彼はすいっと視線を逸らした。

おっ?

「……違う」
「えっ」
「まだ違う。と、思ってる。俺は」
だから違う。と少し眉を寄せて言う。なんとも歯切れが悪い。
これはもしや認めたくないとか、そういう、あれだろうか。同性を好きになることに抵抗があるとか?

確かにこの学園ではごく当たり前であるかのように男同士のカップルが成立しているが、外に出ればそれはいまだに少なからず異質なこととなってしまうだろう。まだ順応しきれていない人間が多いから。
気持ちが分からないこともないな、と一人で推測し納得していると鷹野は頬杖をついて視線をこちらに戻した。

心なしか困ったような表情をしている。

「認めたらあっという間だろ。もっと、ゆっくりでいい」
「―……、なるほどね」

俺の推測は少しずれていたようだ。確かに鷹野の言う通り恋は自覚をすればあとは溺れていくばかりだ。
抽象的にも感じる彼の言葉の内側をすべてを汲み取ることができるほど俺は敏くはないが、つまり、仲良くなったばかりでよく相手を知らないうちではなくもっと距離が縮んで好きを積み重ねてから恋だと結論づけたいということなのではないかと思う。


もしかしたら、恋とは違う単なる好意だという可能性だってあるしな。

ウェイターさんが運んできてくれた食事に舌鼓を打ちつつ、目の前の友人を窺う。
彼はぼんやりとすぐそばの窓を見ていた。同じように視線をやったガラスの外には樹が立っており、雨が新緑を輝かせている。

俺はその静かな風景に少し唇を緩め、まあ、でもと声を出さずに考える。
俺の直感を信じるなら、鷹野清仁という男はとっくに恋に落ちていると思うのだけれど、と。


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