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することもないからシャワーを浴びることにした。戻ると、入れ違いに優世くんがお風呂に行った。テーブルの上に散らばっていた紙は片づけられて、荷物も移動していた。 オレンジ色の照明が部屋の中をやさしく照らしている。ベッドに足を上げて座り、スマホを確認する。SNSのタイムラインを流し見たり返信をしたりしていたら、思ったより時間が経っていたらしい。風呂から上がった優世くんは、部屋に戻ってくるなりおれを見て渋い顔をした。
「あれ、早かったね」 「なんでお前はまだそんなに濡れてんだよ」 「え?」 髪のことを言っていると分かったけれど、とぼけて首をかしげた。とくに意味はない。 首にタオルを掛けたまま出てきた優世くんの髪も濡れていて、ざっくりと全体的に後ろに流されている。もともと短めだけれど、そんなふうにしているのを見ると普段ちゃんとセットしていることが分かる。ちょっとくしゃっとした髪と、部屋着。油断した格好でもきっちり制服を着ているときと変わらず格好いいのだからずるいと思う。
「ドライヤー、こっちにあっただろ。乾かせよ」 「めんどうなんだもん」 我ながら甘ったれた口調でそう言えば、鋭い舌打ちが返ってくる。え、怖い。ごめんなさい。 怒ったのかな、と窺っていると、優世くんは全身から圧を放ちながら長い脚でおれの前に来たかと思うと、おれから奪ったタオルをばさっと頭に被せてきた。 「うわ」 ちょっとビビったけれど、そのまま動き始めた手つきは一瞬前までの勢いにそぐわずゆっくりと穏やかだった。髪を拭いてくれている。人にお世話を焼かれるのは大好きだ。大人しく甘受する。 タオルの陰からそっと見上げてみたら、ちょうどばっちり目が合った。優世くんの手が止まる。何かに驚いたみたいに瞳孔が拡散したのが見えたから、なあにと目顔で問いかけてみる。途端にぐいっと頭を押さえつけられた。
「いたい! え、急になに?」 「自分でやれ。」 「ええ」 嬉しかったぶん突然突き放されたのが残念で分かりやすくしょんぼりした顔をする。お兄ちゃん気質な人は、おれがこういう顔するとああしょうがないなあって甘やかしてくれるけれど、そこは優世くんだ。 こっちを見もせずもう自分の髪を拭き始めた。取り付く島もない。こういうとき食い下がってみても無理だろうなというのは香くん相手と同じだろう。大人しく自分で髪を乾かすことにした。
「翠。起きろ」 とんとん、と胸のあたりを叩かれてまぶたを持ち上げた。 口をあけたままゆっくりまばたきをする。まず優世くんのすっきりと綺麗な顔を認め、その頬に光が当たっていることやベッドに片手をついた彼が制服を纏っていることも見て取れた。 「ゆうせくん、なんで制服きてるの……」 「朝だから」 ほら、と促しながら優世くんがおれの二の腕を引っ張った。その力に従って体を起こすと部屋のなかは明るくまぶしかった。すぐに離れていった優世くんの手を意味なくつかんで引き留めながらベッドボードに載ったデジタル時計を見る。
「7時だ。なんで?」 髪を乾かしてたことまでしか記憶がない。いつ寝たんだろう、というかおれは寝てたの? 寝ぼけてるなと呟いた優世くんが片目をすがめる。 「お前、髪を乾かしたあといつの間にかそこの椅子で丸まって寝てたぞ」 そこ、と指さされたのはテーブルセットだった。へえそうか、と何とはなく思って、それから優世くんを見上げた。優世くんはおれが手を離さないからそのままベッドに腰かけた。 スプリングはほとんどきしまなかったけれど、マットレスが少し沈んでおれの体は優世くんの方にちょっと傾いた。そのまま上体をたおして、わざと優世くんの肩甲骨のあたりに額をくっつける。眠い。
「じゃあ、優世くんが運んでくれたの」 「風邪引かれたら迷惑だからな」 遠回しな言い方は、寝起きの頭に向いてない。いつもならすぐに肯定を意味する言葉だって分かるのに、今は風邪ひかないようにしないとなあが先に来た。だからありがとう、って言うべきところで「迷惑かけてごめんね」と言った。 返事が無くて様子を窺うと、肩越しに見える優世くんの横顔はなんとなく苦虫を噛みつぶしたような色を浮かべていた。どうしたの、と言う前にさっと立ち上がってしまう。寄りかかっていたおれはバランスを崩して手をついた。 「ゆーせくん?」 「運ぶのは、別に迷惑って思ってねえよ」 あ、と意味なく声を溢して、瞬きを三度。
「うん、ありがとう」 それくらい間を空けてようやくおれは一番ふさわしい言葉を口に出せた。軽口のつもりだったのにおれが謝ったりしたから優世くん、気まずくなったんだな。ごめんね。今度は心のなかだけで言う。 それから手を伸ばしてみたら、引っ張って立ち上がらせてくれた。この間みたいに甘えるなと言われるかと思ったのに、何にも言わず、とても自然にそうしてくれたから、ちょっと意外に思って、それから嬉しくなった。
「早く支度しろよ」 「はあい」
にこにこ返事をする。今日はいい日になりそうだ。
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