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「#切ない」のBL小説を読む
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気分を落ち着けようと開いた読みかけの本は、期待した効果を成さずに先ほどからただ開いたままだった。それが手の中から滑り落ちてから一拍遅れて我にかえる。椅子の下に落ちてしまったのを腕を伸ばして拾い上げる。
ハルと初めてまともに会話した日にも、こんな風に本を拾い上げたなあ、なんて。ふとそんなことを考えてしまったせいで一瞬動きが止まったけれど、溜め息一つで誤魔化した。

落ちた拍子に折れてしまったページを元に戻して、本はそのまま机に置いた。背もたれに頭をくっつけて天井を仰ぐ。

あの日は、ハルが初めて笑ってくれて、俺をキヨ先輩って呼んでくれて。
細部まで思い出せる。誰かに笑いかけられて、あんなに心が弾んだのは初めてだったのだ。多分、険悪な態度が最初だったから、余計に打ち解けてくれたことが嬉しかったのだと思う。お気に入りの可愛い後輩だったはずが、気が付いたときには引き返す気にもならないほど好きで、告白までして。ただ目を逸らされただけで、こんなに、動揺してしまうくらい、好きになっていたのだ。

「……思い切り、傷つきましたって態度だったよなあ、俺」

岩見に何か言われて、悪いことをして咎められた小さな子供みたいに目を揺らして振り返った、ハルの強張った顔。そんな顔をしなくても大丈夫だと伝えてやるべきだったのに、安心させるために笑って見せることすらできずに、逃げ出してしまった。背けられた視線、その全身の緊張と拒絶は驚くほど、俺の心にダメージを与えた。

蛍光灯の眩しさに目が痛んで、薄く涙が浮かびかける気配がした。瞑目して、息を整える。
警戒されたり態度がぎこちなくなったりというのは予想したけれど、図書室で会ったときは、気恥ずかしそうだったことを除けば本当に普通だったのだ。それがいきなり覆る理由はなんだろう。……ハルの中で、答えが出たのだろうか。それが俺の希望に添うものではないから、目を合わせづらい、とか。
何にしろ、俺にとって良い心理でないことは分かる。勝算があって告白したわけではなかった。けれど、期待せずにいるというのも無理な話で、ハルが俺に向けてくれる笑顔にも態度にも言葉にも、特別な意味を見出したくて仕方がない俺がいたのは、まぎれもない事実なのだ。今になって、ハルがいつも俺を受け入れてくれていたことに気が付く。あんな風に避けられたことなど本当に一度もなかったのだ。
俺に好意を告げられ、戸惑い動揺していたあの時ですら、ハルは俺自身とその思いを拒絶するようなことは一言も、本当に一言も口にしなかった。本当はあの時、責められたり拒まれたりされてもなんら不思議ではなかったのだ。そのことを今更になって知る。俺は状況に―いや、ハルに、甘やかされていた。

ハルは、どんな心境で、俺から目を背けたのだろうか。もう結論が出たのか。そうであるならば、俺はきっと、振られてしまう。だが、本来的には、そんなことはどうでもいい。


「―ハル」

押し出されるように、無意識に、ここにいない彼を呼ぶ。情けない声だった。情けなくていいから、どんなことになってもハルが傍にいてくれる未来が焦がれるほど欲しかった。


**

「鷹野」
よく響く声に呼び止められた。振り返る前に背中を軽く叩かれ、隣に長身が並ぶ。

「小早川」
「お前も呼ばれたか。任期は終わったといってもお互い多忙だな」
「年内中は、仕方がないだろう」

歩みを止めることはなく、そのまま同じ方向へと歩いていく。昼休みの喧騒のなか、俺たちを認めた生徒はわざわざ脇へ寄って道を空ける。一生徒を相手にそんなことをしなくてもいいのだが。

「お前といると、王様の隣でも歩いてるみたいな気分になる」
「バカらしくて面白いじゃねえか。自分たちから望んで崇めたがってるんだからお前も好きにさせてやれよ」
様付けで呼ぶ必要はないとか、同学年相手に敬語はやめてくれとか、俺が度々周囲に頼んでいることを指して言っているのだろう。風紀委員長を辞すれば終わると思っていたそんな対応は、今も変わる気配がない。

「俺はなにもすごい人間じゃないのに」
「お、ネガティブ発言。なんだお前、今日はテンション低い日か? わかりにくいな」
「別に、そういうのじゃない」
テンションが低いというのは事実ではあるが、ネガティブな発言をしたつもりはない。階段を上りながら、素っ気なく返事をする。

「なんかあったなら"ハル"に慰めてもらえよ。」
軽い口調で言われたことを理解して思わず小早川の方に顔を向けた。にやにやと口元に人を食ったような笑みが浮かんでいる。何か思うところがあってその名を出したわけではなく、単に俺を揶揄おうとしているだけらしい。眉を顰めて視線を外す。

「知り合いでもないくせに馴れ馴れしく呼ぶなよ」
「いいじゃねえか、呼び方くらい」
「よくない」
「嫉妬深いな、お前」

そういうことではない。いや、確かにそういう意味でもあるのだが、それよりもハルがそういう馴れ馴れしさを嫌がるのを知っているから言っているのだ。それに、揶揄いを受けてやれる気分ではない。ハルと聞いただけで馬鹿みたいに心臓が痛くてまだ駄目だ。いろいろと心の準備ができていないのだ。

一年生の廊下に来ると、小早川相手に控えめな歓声が上がる。それを悠々と流してみせるこの男の態度は少なからずすごいと思う。

「一年はまだ小さいのが多いな。あ、お前の想い人はでかいけどな」
「うるさいな」
「俺らと同じくらいあるだろう、発育がいいよなァ。俺が一年の時でもあんなにはなかったけどな。」
まともに相手をせずとも全く気にかけず話を継続するこの図太さ。もう返事をすることもやめていたのだが、不意に話すのを止めた小早川が背中を叩いてきた。

「なんだよ」
「噂をすればなんとやら。愛しの江角くんじゃねえか」
「え、―」

何かを考える前に振り向いていた。ハル。
目が合って、途端にありはしないはずの痛みを感じる。どういう表情をすべきか分からない。動揺しようと歩みは止まらず、距離が近づく。ハルが口を開きかけたのが分かったけれど、真っ直ぐに見返すことが出来ずに目が泳ぐ。あの目に拒絶や戸惑いが浮かんでいたらと思うと、どうしてもハルを見られなかった。
普段とはかけ離れた自分を客観視して、あまりにも居たたまれず、目を伏せる。あ、と思った。これでは俺が顔を背けたようではないか。しかしそう思ったときにはもうすれ違ってしまっていて、そうなればもう振り返ることはできなかった。隣の小早川が俺とハルを見比べたのが気配で分かる。

「おいおい、いいのかよ。」
「……いい」

何も話せることなんてなかった。今、対峙したら縋ってしまう自分の姿が容易に想像できる。俺はハルの選択を受け入れると約束したのに、口ばかりで本当は、そんな覚悟はなかったのだと思い知らされる。
告げられる言葉がなんであれ、まだ、もう少しだけ猶予がほしかった。隠さずにハルを好きなままの俺でいたかった。近くでどっと笑い声が上がる。それに押されたようにすこし速足になった俺に苦も無く並んで、小早川は後ろを気にしているようだった。

「へえ。あんな顔するんだな、あいつ」
俺に聞かせようとしているわけではないらしい小さな呟きを黙殺するが、内心ではハルがどんな反応をしたかが気にかかった。自分が顔を背けられて傷ついたくせに、結果的に同じことをしているのだから笑えない。驚かせたか、不快にさせたか、それとも俺がそうだったように傷ついたのだろうか。
――そうならいいのに。そこまで考え、ぞっとした。今、俺はハルが傷ついていればいいと思ったのか。そうまでして、あの子の中にいたいのか。

「最低だ―」

友人が隣にいることも忘れて低く呻きに似た声を漏らしていた。唇をかみしめる。
小早川の視線を感じた。普段は全く気にならないその見透かすような目が神経に障る。

「事情は全く知らねえが、話し合うべきだと思うぜ。お前ら」
「そうなんだろうな」

自嘲の笑いとともに吐き捨てるように返す。八つ当たりしないだけで精一杯で、上手く感情をコントロールできない自分に嫌気がした。小早川はそれ以上には何も言わずに、ただ一度だけ俺の肩を叩いた。



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