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授業中の廊下は静かだ。教室棟から遠ざかればなおのこと。スニーカーが床と擦れる音がいつになく耳について、そんなことすら過剰な刺激となって苛んでくる。
普通に歩けば5分とかからないだろうに、今は保健室までの距離が果てしなく遠く思えた。自然と荒くなる自分の忙しない呼吸音を聞きながら、今すぐ踞ってしまいたいのを堪えて歩く。けれどその足取りは冗談のように緩慢で遅々として進まない。

「うぅ……」
いつもより発作が激しいことは明確だった。痛いし、気持ち悪いし、苦しい。
ぐ、と込み上げた吐き気を深呼吸で誤魔化す。冷たい水が飲みたい。頭の痛みがどうして胃の腑にまで影響を及ぼすのかまるきり分からない。

なんとか吐き気を抑え込んで、萎えてしまいそうな気力を奮い立たせながら誰でもいいから助けてほしい、と意味のないことを考える。

「岩見?」

それが聞こえたみたいなタイミングで前方から名前を呼ばれた。眼球の奥が脈打つ右目を片手で覆ったまま、少しの揺れすら辛いから、頭を刺激しないようにのろのろと視線を上げる。見たことのある顔。彼の苗字を思い出そうとして、ガンガンという音を伴っていそうな痛みに阻まれる。

「―桃ちゃん、せんぱい」
結局、覚えていた呼称を口にして、取って付けたように先輩と付け加えた。かさかさのひどい声だったからか、その人は、息を呑んでこちらに駆け寄ってきた。

「お前、大丈夫か。顔色、悪すぎだぞ。保健室行くとこか?」
「う……、はい」
「熱があるのか?」
「片頭痛、です」
頭に響かないようにぽそぽそと答える。桃ちゃん先輩が大きな声を出す人じゃなくてよかった。険しい表情で肩に手が添えられる。

「連れてくから、背中に乗れ」
「え……、でも」

桃ちゃん先輩、俺より小さいし、と思ったのが伝わったらしく「チビでも力はあるんだよ」と叱るような口調で言われた。

「いいから、早く」
「んん、……ごめんなさい。お願いします」

失礼しますと呟いて後ろを向いてくれた彼の背中に体重を預ける。意外に、しっかりした硬い背中だった。揺らさないように気を配ってくれているのか彼の動作は慎重だ。

「力抜いていいぞ、ちゃんと連れてくから、安心して目瞑っとけ」
「―、はい」

うわあ、なんか男前だな、と思う。それから果てしなく感じる道のりを歩かなくていいのだということに安堵する。ほっとしたら体から力が抜けた。優しい言葉に思い切り甘えてしまう結果になって、申し訳ないが許してほしい。
肩に頬を預けて目を閉じる。彼からは煙草と何かが混ざった匂いがした。


保健室の前に到着すると、先輩は片手で俺の体を支えてガラリと扉を開けた。
「おい、病人連れてきた」と室内にかける声は、多分養護教諭に向かってのものだ。先生に敬語使わないんだなぁ、とどうでもいいことを思う。

「うわ、あ、岩見くん!?」

驚いた声を上げた後駆け寄ってきた先生の声がすぐ近くでしてうっすらと目を開ける。生徒と関わりが多い訳でもない養護教諭が見ただけで認識してくれるくらいには、俺は保健室の常連だ。嫌なことに。
下がり眉の優しい顔立ちをした先生は、「頭痛だね?」という確認に小さく頷いた俺の背を撫でて労わってくれる。親身に心配してくれる、いい先生なのだ。

「なんで森下くんが連れてきたのかは分かんないけど、ともかく岩見くんをベッドに寝かせてあげてくれ。そっとね」
「おう」

ああ、そうだ。彼の名字は森下だった、と先生が呼んだことでようやく思い出す。彼も保健室によく来るのだろうか。

また歩き出した彼は、ベッドの傍でそっと俺を下ろしてくれた。ぱたりと横倒しにベッドに寝転ぶと何を言うでもなくスニーカーを脱がされ、ブレザーのボタンを外された。手際のよさについぼんやりとされるがままになってしまう。
ブレザーに手がかけられ、大人しく脱がせてもらって、それを先生が用意したハンガーにかけてラックに吊るす様を薄目で見ていたら、振り返った先輩は、今度はネクタイに手をかけた。

「少し緩めるぞ」
「はい……」

もともとそんなにちゃんと締めてはいないネクタイをもっと緩められて、シャツのボタンも、もう一つ外される。とても自然に身を任せてしまっていたが、彼の方もお世話上手すぎるのではないだろうか。布団を掛けることまでしてくれた後、漸くこちらを向いて、目が合う。




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