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「―先輩、ありがと……ごめんなさい」
「ごめんは余計。俺が勝手にやっただけだから気にすんな」
黒い革紐のブレスレットをつけた腕が伸びて、頭を撫でられる。その時先生がぱたぱたと近寄ってきて俺の顔を覗きこんだ。

「岩見くん、薬はいつ飲んだかな?」
「さっき、です」
「そうか、効いてくるといいんだけれど……。吐いたかい?」
「吐いた……」

うんうんと頷きながら先生は俺の頭の下に素早くアイスノンを差し入れる。その冷たさが気持ちよくてため息が漏れた。

「じゃあ、授業もあと二時間分だし、担任の先生にも言っておくから無理せず休んで。エチケット袋を置いておくから、吐きそうになったら使ってね。僕は、これから出張に行かなくちゃいけなくて保健室を空けてしまうけど、ゆっくり寝ていっていいからね」
「はい、ありがとうございます」

互いに慣れたものだからやり取りはすぐに終わった。そういえば先生はいつもの白衣ではなくて、スーツにコート姿だった。すれ違いになって入れないなんて事態にならなかったのは先輩のお陰だろう。
目を閉じている間に先生は先輩と何か言葉を交わしてから保健室を出ていった。


「岩見、眠れるか?」
「微妙です……」

痛すぎて気を失うみたいに眠れるときと、痛みのせいで眠れないときがある。今日は今のところ、眠気が訪れる気配は感じない。眉間にずっと力が入っていて、それを解すように先輩の手が触れた。
どちらかというと冷たい手。その気遣うような触れ方は、少しだけエスと似ていた。それだけで優しい人、と本能的に判断して緩んでしまうあたり、相変わらず俺はエスを好きすぎると思う。

「桃ちゃんせ、―じゃなかった、森下さん」

苗字が分かったからには、このちょっと馴れ馴れしい呼び方はやめなければ。呼びかけてからそれに気が付いて言い直す。森下さんは片眉をあげ「別に呼び方そのままでいいけど」と言った。

「さっきは苗字が出てこなくて……」
忘れていた、とはっきり口に出すことを躊躇って曖昧に呟く。半分くらいしか開いていない視界の中、ベッドの側の椅子に腰掛けた彼は俺を見下ろして少し笑った。

「前は覚えてたのにな」

彼が言っているのは、多分三回目に会ったときのこと。最初と二回目はエスや他の人も一緒にいたけれど、あのときは俺と先輩だけだった。
愛想がいいわけではないけれど誰とでも普通の態度で話すことが出来るエスと違って、俺は人懐っこいフリをした人見知り―いやコミュ障? だから、少ししか言葉を交わしたことのない年上の人と一対一で会話をするのは緊張した。
今は頭痛のせいで緊張どころではないし、むしろこの人に安心感を覚えているくらい。

「もう忘れないです」
「はは。江角も似たようなこと言ってたわ」
くしゃくしゃと髪を撫でられる。すごく、年下扱いをされている。いや、年下だから当然なのだけれど、親しい年上が陽慈くんくらいしかいなかったからこんな風にされるとどう反応していいかわからないのだ。

「―ほら、もう目瞑れ。眠れるかもしれないしな」

そのままそっと目元を手で覆われ、素直に目を閉じる。馴染みのない体温と、微かに香る煙草の匂い。慣れないもののはずなのに低く落ち着いた声と相俟ってほっとする。
痛みに押しやられていた眠気すら呼び起こされたようだ。すぐにうとうとし始めた俺に先輩は喉で笑って「よくなるといいな」と呟いた。






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