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隆盛を極めた太陽からの容赦ない熱光線。点在する木々から届く蝉たちの大合唱が思考力を奪っていく。
直射日光に晒され続けた肌はすでにひりひりと痛みを放っていた。黒くならないかわりに痛々しく真っ赤になってしまう体質は、陸上競技部に所属する冴木にとって厄介なものでしかなかった。夏が終わっても白いままで、女子部員からは本気の声音で羨ましがられるが、どこが良いのだと言いたい。

むっつりとしながら頬に濡れたタオルを押し当てる。こうやって冷やせばほんのすこしでも楽になる。部活が終了した後の身体に燻る熱も一緒に冷却する。

背を預けているのは立派な大木で、豊かな葉が日光を遮り涼やかな木陰を作り出していた
。夏季休業期間に突入した大学構内は部活動やサークル活動をしている学生がいるだけで、授業期間に比べれば随分と閑散としていた。大学に隣接した立派な陸上競技場は、今日はサッカーの試合に使われているとかで、使用ができなかった。
高校時代は、休日以外はいつもグラウンドやコンクリートを走っていたというのに、土のグラウンドでの練習に物足りなさを感じてしまう自分は、すっかり大学での練習に慣れ親しんでしまったようだ。

どことなくしんみりした気持ちで高校時代を思い返す。といっても浮かんでくるのはすべて部活での思い出だ。それ以外の記憶は思い出そうとするのが困難なくらい印象に薄い。それ程に冴木の高校生活は部活動三昧だった。
皆元気かなあ、と仲の良かった友人たちを懐かしむ。

冴木は遠征や旅行以外では離れたことのなかった地元を出て、関東に位置するこの大学へとやってきていた。同じ高校の出身者は知る限りではいない。そこかしこで耳にする標準語はまだ耳に慣れない。訛りをからかわれて以来頑張って直そうとしているが、とっさに出てしまうのは方言だ。
何の感慨もなかった地元の言葉が少し懐かしい。夏休み中だって部活は変わらずあるが、盆休みは設けられている。遠くて億劫ではあるが、両親からも帰省するように言われているし、友人たちも地元に集まるだろうから、ちゃんと帰省しよう。冴木は心に決めた。

「はあ……」

決意したところで、思考から意識がうかびあがったせいか、やたらに暑さを感じた。辟易してつい吐き出した溜め息もどこか熱っぽい。冴木は頭にタオルを被ってストレッチを始めた。ジャージをまくりあげているせいで覗く足首もふくらはぎも日焼けからは遠い白さだ。
開脚してぺたりと体を前に倒す。どこにも痛んだり引き攣ったりしないことを確認しながら丁寧に慎重に筋肉を伸ばしていく。

俯いた拍子に汗が顎の先から滴った。ぐいっと手で拭い顔をあげたところで突然頬にひんやりしたものが押し当てられた。不意打ちに思わず「わっ」と声を上げて体を震わせる。
濡れた頬を抑えながら慌てて振り向けば、斜め後ろに人が立っていた。こんな近くにいて気が付かなかったなんて、大分ぼんやりしてしまっていたようだ。

「赤間さん……」
「なに? その嫌そうな顔。可愛くねえな」

にやっと嫌味なくらい格好いい顔に意地悪そうな笑みを浮かべるその男は、冴木の部活の先輩で、二年生の赤間優だった。姿を視認した途端、反射のように冴木の眉間は寄せられる。
可愛くないなどといいつつ気分を害したふうもなく赤間は隣に腰を下ろした。

さっきまで同じように汗だくで部活をしていたはずなのに、今の彼は涼し気な顔をして普段通りおしゃれな私服姿になっている。

「赤間さん、着替えるの早いすね」
「ていうか、お前が遅いんだよ。なんでまだジャージなの? はやく汗流せば? 暑苦しいから」
「いちいちそういう言い方する……」
思わずぼそりと呟いてしまった。隣にいる彼には当然聞こえていて「なんて?」と軽くにらまれたので目を逸らす。

「柔軟してたんです」
「見ればわかる」

にべもない、とはこういうことを言うんだろうか。むっと無意識に唇を尖らせながら冴木は考える。どうしてこんなふうな返しをするのだろう、この人は。関西人と関東人の違いというわけでもない。他の先輩たちは優しかったり面白かったりでこんな返しをされたことはないというのに。

冴木がむっとしたことに気が付いたのか、赤間は楽し気に笑みを浮かべた。彼は冴木を苛立たせるのが楽しくて仕方がないらしく、いつもこんな調子だった。

「やるよ。熱中症になりそうなくらい暑いよな、今日」
「え」

伸ばしていた膝の上にとん、と冷えたペットボトルが落とされた。さっき冴木の頬に触れたものはこれだったらしい。青いラベルのスポーツ飲料はまだ開封されていないようだ。わざわざ買ってきてくれたのだろうか。
沸き上がったのは単純な嬉しさではなく、もっと甘いものを含んだ感情だった。それは冴木の鼓動を高鳴らせ、頬に熱を上らせる。こんなことでこれほどに喜びを感じてしまうのは、それが冴木にとって特別なことだからだ。

どうしてだか冴木はこの意地悪な言い方ばかりする先輩に恋をしているのだ。

本当にどうしてだか、と冴木は思うが、実際は理由などわかりきっている。彼は時々言葉や行動にとても優しいものを垣間見せるのだ。普段の意地の悪い言動に隠されたそれらの方こそが彼の本当だと冴木は彼と接するうちに気が付いてしまって、そうして先輩として慕う以上の感情を抱いてしまった。
実のところまだ自覚したばかりのその感情は簡単に冴木を一喜一憂させる。

ドキドキと乙女のようにときめいてしまっていることが表に出ないように気を付けながら、冴木は口を開いた。

「俺に買ってくれたんですか? ありがとうございます、赤間さん。」
「―別に? 間違って買っちゃっていらないだけだし。無駄にしたくないから」

赤間の前だといつもひねくれたことばかりを吐き出す口が、珍しく素直にお礼を言った。それに安堵したこともあり、嬉し気に笑みを浮かべた冴木を一瞥した赤間は、ふいっと顔を逸らして素っ気なくそう返した。
嬉しさで満ち満ちていた冴木の心はぺしょりと少し萎んでしまう。

なんだ、俺を心配してくれたわけじゃないのか。

内心の冴木は眉を下げ、しょんぼりした犬のようになってしまっているというのに、口からは「赤間さん、ドジっ子っすか。ウケる」などと自分でもイラッとしてしまうようなセリフが出てくるのだから驚きだ。案の定赤間を苛立たせてしまったらしくびしっとデコピンをされてしまう。
とても痛い。

「かっわいくねえなー。つーかお前はやくシャワー浴びて着替えろよ」
「……なんでっすか。部室の鍵なら俺閉めますよ」
「ちげえよ。タツヤたちと夜飯食いに行こうって話になってんの。お前も来いよ」
「織田とかも行くんですか?」

タツヤというのは赤間と同学年の陸上部員で、織田は冴木と同じ一年だ。
尋ねながら、誘ってくれた! と尻尾を振る内心の自分を、「いや、またぬか喜びに決まっているから」と諌める。大方タツヤや他の先輩たちが冴木も誘ったらとでも言ってくれたのだろう。

「あいつらが誘ってたし行くんじゃねえの。知らねえ」
興味ない、とまで続けて言い放つ赤間。そんなふうなのに自分のことはわざわざ部室からは離れているこちらまで誘いに来てくれたのか。諌めた甲斐もなく冴木は嬉しくなってしまった。

「じゃあ、行きます」
「よし。―なんかお前顔赤くない?」
「は!? あ、日焼けっす日焼け!」
確かに日焼けで火照っているが、それとは違う意味でも紅潮している頬を指摘されたことに焦って、ぶんぶんと手を振る。

「じゃあ俺もすぐ行くんで赤間さん、先戻っててくださいよ」
怪訝な顔をする赤間から目を背け少し早口気味に言うと彼は「はあ?」と声をあげた。
「お前も一緒に行けばいいだろ」
「いや、俺まだ柔軟終わっとらんし、先輩待たせるの悪いんで! 先行っとってください!」

軽く方言が飛び出してしまったが、以前にそれを笑った張本人である赤間はあまり気にした様子はなく、しかし少しばかり不機嫌そうに「そうかよ」と立ち上がった。もしや怒らせてしまっただろうか、と歩き出した背中を見ながら慌てているとくるりと顔だけ振り返った赤間と目が合った。

「早く来いよ」

にっと笑った顔はとても優しくてすこし子供っぽかった。
機械のようにぎこちなく頷いた後、去っていく後姿を茫然と眺めていた冴木はややあって力無く膝に顔をうずめた。

「赤間さん超かっこいい……」

真っ赤な顔で零した言葉は本人さえ聞いていなければとても素直だ。
冴木は熱い頬に赤間からもらった冷えたペットボトルをあてて猫のように目を細めた。実は柔軟はとっくに終わっている。

火照りが引いたらすぐに部室に行こう。

ごはんの時赤間さんの隣に座れないかなあ、無理かなあ。
そんなことをふわふわと考えている冴木は、「間違えて買っただけ」と言っていた赤間が、ここにやってくる前に立ち寄った自販機で迷いなく冴木の好きなスポーツ飲料のボタンを押していたことなど、知る由もない。

17時を過ぎた夏の空はいまだ晴れやかに青い。

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