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屋上へとつながるドアは、建付けが悪いのか妙に重く、押し開けると軋んだ音を立てる。袖をまくった腕に筋肉の筋が浮き上がるくらいだから、きっと女性であれば開けることに苦労するだろう。今日もドアはぎい、と耳障りな高い音を上げて開いた。
コンクリートに足を踏み出すのと同時に吹き付けてきた一陣の風にのって、ふわりと鼻孔に届く煙草の匂い。俺は乱れる髪をおさえて顔をあげた。細めた目が先客を映す。褪せた緑色のフェンスに腕をのせている後姿。ハーフアップにされた柔らかそうなチョコレート色の髪の先が揺れている。

ポケットから取り出した煙草に火をつけながら傍へと歩いていく。
彼と同じようにフェンスの上部に腕を乗せ、ゆったりと煙を吐き出す。数時間ぶりの喫煙にじんわりと気分がよくなる。それからそっと隣を窺うと、機嫌のいい猫のような目と目が合って笑いかけられた。
「おはよー、ミチル」
「はよーございます、花崎さん」
頬杖をついてくつろいだ様子の花崎さんに、煙草を唇から離して会釈する。1つ年上のこの人は、この屋上での喫煙仲間。大抵の人は、風が強くて夏は暑く冬は寒いここで休憩なんて嫌がるから、彼は俺のほとんど唯一の仲間なのだ。

ちなみにおはようと挨拶を交わしたが今は6限めが行われている時間帯。要はお互いさぼりだ。

「昼に来なかったから、今日は休みかと思った」
「時間とれなかったんですよ。ちょっと友人らが乱闘してたもんで」
「ふうん、元気だね」
「本当に」

仲裁に入ったらとばっちりを受けて殴られた。おかげで唇の脇にあざができたし、時間もなくなって昼休みの至福の一服ができなかった。右頬に手を当てて溜息をついてみせる。
花崎さんは喉で笑って、片手に持っていたコーヒーの缶に口をつけた。黒い缶。ブラックコーヒーだ。珍しい。

「花崎さん、ブラック飲めるようになったんすか?」
この人のことを詳しく知っているのかと言われれば否だが、それでもちょっとしたことなら分かっているつもりだ。いつも飲んでいるのはレモンティーか緑茶で確か、ブラックコーヒーは人の飲むものじゃないとか言っていた気がするのだが。

尋ねた俺の方を見た花崎さんの顔はちょっと笑ってしまいそうなくらい歪んでいた。いや、それでも元々の顔が綺麗だから不細工にはなっていないけれど。眉間にしわを寄せ唇をへの字に歪めたまま彼は小さく首を振った。

「いや、なってないね」
「え、じゃあなんで」
「―槙原がさー……恋人できてからクソほど俺にのろけてくるんだよね」
「うっそ、槙原サンってのろけたりするんすか」

言われ、脳裏に浮かぶのは花崎さんのご友人でこの学校で一番やばいという噂の男の人。堅気ではなさそうなオーラと目つきの野獣っぽい男前。やばいというのは喧嘩的な強さのことだ。キレさせたら病院送りは免れないだとかなんだとか。事実かどうかは不明だが、確かめる気にはならないタイプの人だ。その彼がのろけるという光景が想像できなくて目を瞬く。
花崎さんは深く頷いた。

「あんなでろでろに甘い顔したあいつは俺も初めて見る……。まあ、それであんまりのろけてくるからうんざりして甘いのは勘弁って気分になってさ」
「ああ、それで」
「今ならいけるかと思ったけどダメだったよね」

これどうしようか、とまだたっぷりと残量があるらしい缶を揺らす。

「よかったら、俺飲みましょうか」
「え、いいの? てかブラック飲めるの?」
「好きってほどではないすけど、たまに飲みますよ」

「うわ大人だぁ」と、口調はさほどでもないが、まるで尊敬でもするかのような目でこちらを見る花崎さんに笑って缶を受け取る。きっと2、3口しか飲んでいないのだろうなというくらいには残っていた。

「サンキュ、助かるわ。さすがミチル」
「何がさすがなのかはわかんねえっすけど、どういたしまして」

フェンスに寄りかかるようにして地べたに腰を下ろす。短くなった煙草を地面に押し付けて消す。その行動をなぞるように隣にあぐらをかいた彼はポケットから煙草を取り出して火をつけた。

花崎さんは中性的とでも言えばいいのか、とにかく男の俺から見てもとても綺麗な人だ。ふんわりした長めの前髪がかかった額からすっと高い鼻、少し赤みの強い唇から顎、首元へと流れるラインが完璧。物でも人間でも綺麗なものが好きな俺は普通に見惚れてしまう。
この人を見ていると魅力というものに性別は関係ないんだなあと思う。だって花崎さんは確かに中性的だけれど女っぽさなんて微塵もないから。

長い指で挟んだ煙草をけだるげに吸うその仕草は渋くて格好いい。俺はともするとずっと花崎さんに釘付けになりそうな視線をそらしてコーヒーを煽った。
花崎さんが吐き出した煙からは煙草特有の匂いに交じって微かにバニラのような香りがした。

「ピースとか、花崎さんって顔に似合わず重いの吸ってるっすよね。―あ、顔に似合わずって失礼か、えーとギャップ? そうそう、なんとなくギャップあるなってことっす」

ふっと思ったことを口にしてから、失礼な言い回しを考え考え訂正する。花崎さんが目を細めてこちらを見た。煙草をくわえたままの口角は上がり、目も猫のように笑みの形になっている。
「それを言うならミチルじゃね? その男前っぷりでバージニアってどうよ」
「え、なんか変すか」
「顔で言うとお前はセブンスターかケントのイメージ」
言われ、ああなるほどと思う。確かにナリもデカくて顔が怖いと言われることの多い俺が女物を吸っているのは傍から見れば違和感があるだろう。
人のことが言えないというのはこのことか。思わず苦笑すると花崎さんも笑いながら肩に寄りかかってきた。

「つーか煙草で思い出したけど、槙原、恋人くんにキス苦いって涙目になられたらしくて煙草やめるとかって深刻な顔してたわ」

その話をしていた時の様子でも思い出したのか彼の声にはうんざりだという気持ちと槙原さんを面白がっている気持ちがはっきりと表れていた。
ていうかマジか、槙原さん。あの俺でも知っているヘビースモーカーがそんなことを言い出すなんて本当にものすごい勢いで惚れ込んでいるようだ。

同性の恋人だと花崎さんに聞いたときは思い切り噎せてしまったけれど、それだけ好きになれるのなら男も女もないなと思う。相手は幸せ者だ。

「まじでやめたらすげーっすね」
「なー」
「―つーか、なんかうらやましいっす」
しみじみと零した俺に対し花崎さんは「えっ」と声を上げた。

「なんていうか、そんなふうに愛せるのも愛されるのもすごいことだと思うんすよ。全力で愛されたらすっげえ幸せだろうし、槙原サンみたいに好きなものやめてもいいって思えるくらい相手を大事に思えるのも、なんかうらやましいっすよね」

途中で恥ずかしいことを言っていると自覚して、最後のほうはあいまいに笑って誤魔化したが、花崎さんからは何の反応もなかった。笑うかと思ったのだが。
不思議に思って彼を見れば、俯いたまま、いつの間にかフィルターに近くなった煙草の火を消していた。それからゆらりと立ち上がる長身痩躯。

思わず動作を目で追っていると彼は振り返って俺に覆いかぶさるように腰をかがめた。明るい陽光がその背にさえぎられて目の前に影ができる。

「花崎さん?」
ネクタイもしていないシャツの襟を掴んで、引っ張られる。ずっと無言のままの彼とその行動に、名前を呼んだ俺の声には困惑が濃く浮かんでいた。
呼号に応えるようにほんの少し顔を上げた花崎さんの目が俺を見る。髪と同じ甘く柔らかなチョコレート色の瞳は追い詰められてでもいるかのように揺れている。

どうしたんですか、と問いかけようとして、けれどそれは結局音にならなかった。花崎さんの唇が俺の唇をふさいでいた。微かにする馴染みのない匂いは彼が先ほどまで吸っていた煙草のものだろうか。
固まったまま、そんなことを考えているうちに唇は少し離れ、またふにっとくっついた。躊躇を含んだキス。そうだ、これはキスだった。俺の体は全く抵抗しなかった。いや、できなかったというのが正しい。頭がついていけてなかった。

花崎さんがゆっくりと体を離したときも俺はぼーっと彼の綺麗な顔を見ていた。

「……」
「え、っと。花崎さん―?」
「……羨ましいなら、―俺を選べばいいのに」
「え」

やや不明瞭に言葉を発し、キッとこちらを見た花崎さんはまるで怒っているかのような表情をしていたが、目が合ってすぐに逸らされた先に見えた耳は真っ赤だった。
「花崎さん、それって、」
「とか言ってみたりして! そういうことだからじゃあな!!」
咀嚼した言葉を自分なりに理解して混乱して、確認しようと口を開いた俺の言葉が終わる前に、花崎さんは捨て台詞のようにそう叫んで、手を伸ばす暇もなく走って行ってしまう。あんなデカい声出すの初めて聞いた。
ぽかん、とその背中を見送った俺が我に返ったのは重い扉が閉まる音を聞いた十数秒後だった。

「え、マジで?」
思わず独り言をいいながら立ち上がる。さっきの言葉とキスの感触が何度もリフレインされる。
口元を覆って逡巡すること5秒、俺も扉に向かって駆け出していた。
まるで全力疾走でもしたかのように弾みまくる心臓を抑え、とりあえず捕まえてキスをして、それからさっきの言葉の意味を聞こうと思った。

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