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朝六時。顔を洗って歯を磨いて着替えをしたらランニングに出かける。毎日の習慣だ。
帽子をかぶりながらまだ寝ている家族に配慮してそっとドアを押し開ける。途端に襲ってくる熱気と眩しさは今がまだ早朝にあたる時間とは思えないほど強烈だ。

軽いストレッチをして、適当に足を突っ込んだだけで出てきたシューズの紐を、丁寧にしっかり結ぶ。それからたっと軽快に駆け出した。
走るのはおよそ10q。ルートはいつも同じ。家からちょうど5キロほどのところにある神社が折り返し地点だ。

走りながら滲み始めた汗をぬぐったところで角から出てきた、同じくランニングをしていたらしい人と危うくぶつかりかけた。

「っと。すみません」
「いや。こっちこ、そ」

互いにのけぞるようにして立ち止まり、慌てて謝まる。相手の言葉がやや不自然につかえた気がして俯き気味だった顔をあげると、やや目を丸くした精悍な顔つきの男が見下ろしていた。その顔が見知ったものであったことに驚いて、ぽかりと口を開ける。

「―、乙和くんだ」
「やっぱり。バレー部の」
「あ、うん。京塚です」
こくりと頷いて名乗ると、相手も頷き返してきた。高校一年生とは思えぬ、重々しい首肯。

「……知ってる。京塚俊介、くん」
「お。フルネーム」

あはは、と笑ってみせるが内心ではすこし意外性を感じていた。京塚の通う高校の野球部は、公立校でありながら県内では強豪といわれている。その野球部に所属する彼は、一年で唯一の一軍入りをしていて、試合でも活躍しているらしい同学年の中の有名人である。
そんな彼が、まさか自分のことを知っているとは思わなかったのだ。クラスも違うし、共通の友人もいない。当然、話すのだってこれが初めてだ。

笑う京塚を、彼は黒々とした目でじっと見つめる。京塚はええと、とちょっと視線を彷徨わせた。

「乙和くん、どっち行く?」
「神社のほう」
「あ、一緒だ。ええと、良かったら一緒に走る?」
何気ない提案に、彼は切れ長の目をくっと見開いた。ずっと真顔なのに、先ほどから目だけが表情豊かに感じられる。

「いいのか」
「えっ、いいよ? むしろ乙和くんが嫌じゃ」
「嫌じゃない」
思い切り言葉を遮って断言してから、はっとした様子で瞬きをし少し視線を逸らす。もしかして、ちょっと照れたのだろうか、と思ったらなんとなくうっすらと身を覆っていた人気者に対する気後れのようなものが消えた。

「そっか、よかった。じゃあ行こ」
「ああ」
笑いかけ、二人並んで走り出す。

「ペース遅かったりする?」
「いや、同じくらいだ」
「そ、よかった」
まだ静かな道路に響く足音が二人分になった。なんだか新鮮だ。帽子の影からちらりと隣の男を見上げる。175cmの壁をまだ超えられていない京塚から見て、乙和は大きな男だった。180cmは優に越しているだろう。羨ましい、と思う。

「乙和くん、いつも走ってるの?」
「ああ」
「そうなんだ。俺もなんだけど、会ったことなかったね」
「……30分はやい」
「ん? ああ。夏休みに入ったからちょっと遅くしたの?」
「そう」
「そっかそっか。俺はいつも6時から走ってるんだ。じゃあ、夏休みの間は会うこと多いかもだね」
「―ああ」

走りながら話しかけても乙和は特に嫌そうな素振りはせず返事をくれる。
それをうけて元々よく話す方である京塚はなお舌が滑らかになった。遠慮が消えたともいう。

「てか、乙和くんと俺、ご近所だったんだね? 中学同じじゃないのに」
「春休みに引っ越したから」
「あー! 納得。学校から近くていいよね」
「ああ」
「野球部、勝ち進んでるよね。次、準決勝だよね? いつやるの?」
「明後日」
「へえ、乙和くんもでるの?」
「多分、出してもらえる」
京塚が思い付くままに振る話題に、彼は口数は少ないながらもやはりしっかりと答える。それだけでも京塚が、「案外、取っつきやすいな」という印象を抱くには充分だった。

「まじか、すっごいね! 頑張って!」
「……ありがとう。でも、京塚くん、もすごいだろ」
「へ?」
「レギュラーだろ」
「え、うん。―え? なんで乙和くんがそんなこと知ってんの」

思わず隣を思い切り振り向くと、乙和はちらりと横目にこちらを見てぎこちなく逸らした。

「京塚くんは、目立ってるから。―いい意味で」
「なにそれ、ないない! 目立ってんのは乙和くんだって! 野球上手くてイケメンで勉強もできるとかまじやっべーよ」
「なんだそれ、俺のことじゃない」
「いやいや、乙和くんのことだって!」

おかしな反応にけらけらと笑ってしまう。

「京塚、くんはいつも笑ってて、それが、すげーいいなって思う」
告げられた言葉に驚いて、一瞬言葉を失った。
ちらりとまた横を見るが、相手は至って平然としている。耳が熱くなった。

「そ、ういうこと言われたのは初めてだー」
「そうなのか。多分皆も思ってる」
「うわーなんか照れるって。この話やめよう!」
前に向き直って主張する。乙和はそうか、と呟いてそれ以上は言わなかった。大袈裟な反応だという自覚はある。しかしこれほど真っ直ぐに褒められたことなど滅多になく、しかもそれを口にした人物が乙和だというのは大きかった。
自分など及びもつかない優秀で格好いい人間だと認識している人からの褒め言葉は京塚には勿体ないものだ。

無意味に咳払いをして気を取り直す。
「あのさ、乙和くん。俺のこと、くん付けしなくていいよ、なんか呼びにくそうだし。俊とか俊介とかって呼んでよ」
「いいのか」
「もちろん」
「……じゃあ、俊介」
「はい!」

歯切れのいい返事に、乙和は少し笑ったようだった。乙和くんって笑うんだな、と人が聞けば当たり前だと言われるようなことを思った。

「俊介、俺のことも陣でいい」
言われ、京塚の表情がぱっと華やぐ。名前を呼び合うと一気に仲良くなった気がするのは何故だろう。

「陣くん!」
元気に呼ぶと、乙和は少し間をあけて「……くんはいらないけど」と呟いた。

「なんとなく陣くんのが呼びやすいから陣くんじゃだめ?」
「あー、まあ、そういうことなら」
「やった。陣くんね」
「ああ」
「陣くーん」
「うん」

走りながら特に用もなく名前を口にする。乙和も分かっているだろうに律儀に応じてくれた。
元々の人懐っこい性格もあり、京塚は彼のことがすっかり気に入ってしまったことを自覚する。単純なものだが、別段害はないのだからいいだろう。

「陣くんと知り合いになれて今日はいい日だわー」
「……、そうか」

ほんのわずかに照れたような様子で相槌を打った彼に笑みをこぼしたとき、鳥居が見えてきた。緋色が目に鮮やかな鳥居だ。
そこは年末年始にはおおいに混み合う、この辺りでは恐らく一番大きな神社だった。そのまま走っていって目の前に着いたところでどちらからともなく足を止め、長い階段を見上げた。

京塚がいつもこの上でストレッチがてら休憩をするのだと言うと、乙和は自分もそうだと答えた。そんなとこまで一緒なのかと面白く思う。それならば、と並んで階段を上った。
蝉の声が四方から降ってくる。てっぺんに到着し、大きく息を吐き出しながら頭を下げると額から伝い落ちた汗がコンクリートに丸く跡をつくった。ぐいっとタオルで乱雑に顔をこする。


「はー、あっちい」

境内には大きな木がたくさん植わっている。蝉が騒がしいが、木陰になっていて風が抜け、気持ちいい。
隅に備えられた水道で顔を洗い喉を潤したところで、乙和がじっと見つめていることに気がつく。

「なに?」
「……いや、あー、水道水、飲むんだな」
「へ、普通に飲むよ。あ、陣くん無理な人?」

それなら水分補給が大変だろうと思いながら問うと、彼はゆるりと首をふった。

「平気。俊介は、潔癖なイメージだった」
「まじか! 残念ながら違うわー。俺、部屋とかきったねえし」
「―親近感」
「陣くんも部屋きたねえの?」
「まあ普通に」
真面目に頷くのが面白くてけらけらと笑ってしまう。近づいてきた乙和に水道を譲って、京塚は一際大きな木の下に移動するとじっくりと体を伸ばし始めた。

「柔らかいな」
ストレッチが下半身から上半身に移ったところですっきりと短い髪まで水で濡らした乙和が同じく木陰にやってきて、短く言葉を発した。肩を伸ばしながらその顔を見上げる。

「陣くんは硬いの?」
「あまり柔らかくはない」

言いながら前屈する。指先がぎりぎり地面に届いた。そして姿勢を戻し、「な?」と同意を求めるような目顔をする。

「いや、結構柔らかいって。てか、足が長い!」
「そうか?」
「そうだよ。いいよなあ、俺ももっとでかくなりたい」
「まだ伸びるだろ」
「だといいなあ」

肩をぐるりと回し顎をそらせる。木漏れ日がきらきらと眩しかった。
ストレッチをしながら乙和がこちらを見ていることがなんとなくわかったが、何か話しかけてくるわけでもなかったので、京塚はそのまま瞑目した。
吹き抜けた風が汗に濡れた肌を冷やす。

「風気持ちいいなぁ」
「……そうだな」

ほとんど独り言のつもりで、反応がなくたって構わなかったはずなのに、ゆったりとした声で同意をされると「ああ、なんかいいなぁ」と思った。
多分、乙和は京塚がどんな話を振っても耳を傾けて、ささやかな問いかけにもちゃんと答えてくれるのだろう。そう思わせる丁寧さが乙和にはあった。

目を開けて、思った通り京塚の横顔を見つめていた乙和ににこっと笑いかける。乙和は眩しそうに目を眇め、二度ほど瞬きをしてから「俊介」と呼んだ。


「ん、なに?」
「毎日、同じ時間だって言ったよな」
「うん」
「明日からも、一緒に走りたい」

言って、黒々とした眼が何かそれ以上の意味を含んでいるかのような強さで京塚を見つめる。
その視線に少したじろぎ、けれど京塚には断る理由などなかったし断ろうという気も全くなかった。

「―うん、そうだね。そうしよう」
「いいのか」
「もちろん。陣くんと走れたら、楽しいし」

立ち上がって、そろそろ行こうと声をかける。頷いた乙和は少しだけ緩んでいた靴紐をぎゅっと縛り直してから立った。

「明日からもよろしくね、陣くん」
見上げて言う。
「ああ。よろしく、俊介」

彼が笑った顔が鮮烈で、京塚は胸を衝かれたような気がした。誤魔化すようにもう一度よろしくね、と繰り返した声はなぜだか少し上ずってしまった。

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