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1

深い黒は、青みを帯びて見える。さらりと揺れる艶やかな髪を見つめながら、それに触れることを夢想する。どんな手触りなのだろう。柔らかいのだろうか、かたいのだろうか。日に当たったら灰になってしまいそうだ、なんて冗談を言われているくらい白い、抜けるように白い手が、細いフレームの眼鏡を押し上げる。伏せた目を縁取る睫毛がけぶるように長い。
その目が、ふと教科書から上げられた。ばちりと音がしそうなほどしっかりと目が合ってしまう。ずっと見つめていたことがばれる、と思った。咄嗟に偶然目があっただけだと言う体を装おうとする。しかし、それより早く彼の酷薄な印象を与える薄い唇が「三郷」と、自身の姓を呼んだ。

「っは、い?」
平坦な呼び掛けに対しての返事は、裏返る寸前のような焦りの透けた声で、それが己の耳に届くのと同時に羞恥に焼かれそうになる。彼は、あまり気にした様子はなく、黒く光る眼で三郷を見る。

「手持無沙汰のようだが、もう出来たのか」
「あ、……は、はい」
「そうか。―そろそろ時間になるし、少し早いが黒板にお前の解答を書きにきてくれるか」

白い指が彩度の異なる白いチョークを、こちらに差し出してみせた。ぎこちなく頷いて立ち上がる。まだ問題に取り組んでいる生徒が多い。教室は静かだ。彼から目が離せないまま歩み寄る三郷を、彼の方でも目をそらさず見返している。明瞭に感情を浮かべることのない端麗な顔。チョークを受けとる瞬間に触れた指は、夏の蒸し暑さなど嘘のようにひやりと冷たかった。



くすんで曇った色をしていた空が、日増しに明度を取り戻していくように思う。今日の空は、門出に相応しく、晴れやかで美しい色をしていた。
ぼんやりと裏庭に立つ大きな桜の木を見上げる。まだ開花には早い。あるのは硬いつぼみばかりだ。それでもどうしてかその木は薄らと淡い桜色をして見えた。

ああ、と溜め息をつくように感傷が押し寄せる。三年だ。三年もの間、三郷はその身の内に花開くことを許されない硬いままの蕾を持っていた。そのまま、しおれていってくれるのだろうか。

「三郷」
ふいに、名前を呼ばれた。彼の声を間違えることないだろう。低く涼やかな声だ。この声が読み上げただけで、教科書のつまらない文は意味を持って鮮やかに三郷の耳に届いた。試験の最中さえ、彼の声を思い出して解答を埋めていた。お陰で三郷は、こと彼が教える教科においては覚えのめでたい優秀な生徒でいられた。

「……四宮先生。」
振り返って微笑んでみせる。靴底が地面と擦れて、砂利が小さな音を立てる。いつもよりも質の良さそうなスーツを着た彼の胸元には卒業生のクラス担任がつける花飾りがある。白いその造花は、彼によく似合っていた。
いつも表情が薄く、とっつきにくい印象を受ける彼の端麗な面にそっと笑みが乗る。

「卒業おめでとう、三郷」
「ありがとうございます。」
「担任の先生に、第一志望に受かったと聞いた。それも、おめでとう。」
「先生に、古文の特訓に付き合ってもらった甲斐がありました」
「君はとても、呑み込みのいい生徒だから」
彼は、二人きりだとそっと静かに話す。声をひそめているわけでもないのに、自分だけに秘密の話をされているように感じていつも胸が疼いた。隣に並んで、桜の木を見上げる彼の横顔をそっと盗み見る。

「……明日から、君がいないなんて、とても不思議だ」
「寂しい? 先生」

おどけて言いながら、そんな質問、どんな生徒が相手でも寂しいと答えるだろうと思う。ましてや、三郷は隣のクラスの生徒だ。三年間で一度も彼が担任だったことはない。その一言は何の情動もなく告げられるだろう。そう思った。けれど、彼は眼鏡の奥の美しい目を三郷に向けてゆらりと視線を揺らした。

「―そう、だな。寂しい、んだろうな……僕は。友人に囲まれている君が、その輪を抜け出して、とっつきにくいと言われている僕なんかに話しかけてくれるのが、いつも嬉しかった。」
「え……」
「君にとっては、何気ないことだったと思うけれど、僕は―君が、そうやって話しかけてくれたり、僕のつまらない話に耳を傾けて笑ってくれたりすることが、とても嬉しかったんだ。授業だって、……いや、こんなことを言うのは、きっと教師らしくないよな」
彼は言いかけた言葉を呑み込んで、唇を軽く噛んでから恥じるような仕草をした。すまない、と囁くような声で話すことを止めた。
想いが突き上げてくる。三年間ずっと、彼が特別だった。見掛けると傍に行きたくて、学校中の誰よりも自分が一番彼と親しくなりたくて、彼に会いたくて、彼を自分のものにしてしまいたくて。

「先生―。っ……先生、なんで、そんなこと言うの」
「み、さと……?」

彼の手を掴む。初めてこんな風に触れた。白くて細い手。どれだけ焦がれていただろう。どれだけ、あなたに触れたかったろう。
養分を与えないよう、咲かないよう、見つからないよう、握り潰していた蕾は、それでも萎れてはくれなかった。

「俺、あんたのことが好きだ。ずっと好きだった、四宮先生」
彼の、三郷との綺麗な思い出を、隠していた恋慕を突き付けることで汚してしまう。泣きたいくらいだ、と思う。勿論本気で泣いたりなどしない。その代わりに他の誰にも聞こえない声で「好き」ともう一度繰り返した。眼鏡の奥で、澄んだ黒い目が見開かれている。その美しい瞳が曇るのも冷えるのも見たくはなくてぎゅっと目を瞑る。
ごめんなさい、先生。なにも言わないで。俺の汚い想いなんて忘れて。それも嘘だ、本当は信頼を裏切られたと傷ついてほしい。その心に俺を刻み付けて。一抹の寂しさだけでは、足りない。足りないのだ。

「……三郷」

彼の手を握り続けることもできずに力なく落ちた三郷の手首を、そっと冷たい指先が撫でた。びくりと肩が揺れる。白い手、彼の、美しい指。閉ざした視界でそれが艶かしく浮かんだ。
ここで想いを踏み潰して泥まみれにしたとしても、無駄だと痛感する。自分はそれを掬い上げて汚れごと呑み込んで、ずっとずっと腹の中で大事にするのだ。そういう予感がした。

おかしいくらい愛おしいのだ、その手が、その声が、瞳が、髪が――彼という生き物が。
血が滲みそうなほど唇を噛んで、目を開ける。拒絶される覚悟は、今出来た。拒絶されても消えないだろうモノへの諦めも。
強張って、嫌悪と困惑を浮かべているはずの彼の顔を見下ろす。そして、その先の光景が信じられずに三度瞬きを繰り返した。
「先、生?」
最初に認識したのは桜色だった。抜けるように白い、彼の肌が薄く色づいている。彼に流れる血の色が、その頬を染めている。困惑しきりに赤くなっている、一度も見たことが無い表情だ。

動揺しきった無様な声で呼んだ三郷を、長いまつげを伏せていた彼がそっと見上げる。黒水晶の瞳が、またゆらりゆらりと揺れている。きゅう、と柳眉を寄せた彼が淡い色の唇を開くのを、三郷は固唾を飲んで見つめた。
「……僕なんて揶揄っても、面白い反応はしてあげられないが」
「揶揄ってなんかない」

拒絶されるのは仕様がないことだけれど、想いを偽りだと思われることは耐え難かった。語気を強めた三郷の指をきゅう、と彼の冷えた手が掴む。彼の表情も行動も、言葉と一致していないように思えて眉を寄せる。
そんな可愛いことをしないでくれ、己の中に囲い込んでしまいたくなる。

「―……本当に?」
「え?」
「本当に、僕を好きなのか」
湧きだした唾液を飲み下す。

「三年間、ずっとあんただけが好きだった」

恐る恐る、こちらからも指を絡めると彼はびくりと肩を跳ねさせて、ますます頬を赤くした。病的に白い肌の名残は無く、たいへん健康的な顔色になっている。その反応はどういう意味なのだ。三郷の中で欠片ほどの大きさもなかった期待感が膨れていく。冷静な大人は鳴りをひそめ、三郷の前に立つ細身の男は頼りなく、いっそ縋るような目で三郷を見た。

「―僕は、教師失格だ」
「どうして」
「だって、僕は三郷のことが、……好きだったみたいなんだ」
「は―」
「いつも君を探していた、いつも君を目で追っていた。今日だって、君がみんなと一緒にいなかったらわざわざこんなところまで探しに来てしまって。……そんなふうに三郷のことが気にかかるのは、君が僕になついてくれた可愛い生徒だからだと思っていた、のに」
いつも端的に、静かに話す彼が上手く息を継げずにいるような苦し気な話し方で言葉を紡いでいく。喜怒哀楽を仄かにしか浮かべない顔が泣き出しそうに歪んでいる。

「違ったんだ、僕も君が好きだった、生徒に恋情を抱いていたなんて、僕は大人なのに、教師なのに、」
「でも、もう俺はあんたの生徒じゃないよ」

細い体を、夢にまで見た肢体を腕の中に取り込んでいた。彼の纏う常識とか在るべき大人の姿とかいうものを、引きはがしてしまいたかった。感情の高ぶりのせいか、体温が低いはずの彼の身体は発熱したように熱くなっていた。
ああ、彼の体だ。離したくはない、ずっとこのまま抱きしめていたい、何物にも委ねてしまいたくない、まして彼もこの俺を好きだと言ったのだから。

「ねえ、好きです。好き、――」
先生という記号ではない、彼の名を呼ぶ。びくりと痩身が強張る。彼の混乱と躊躇いと恐怖が触れ合った部分から伝わってくる。三郷の方では、自制心もしおらしさも消えてしまっていた。剥き出しになった本心が、本能が、全身で彼を請うている。神経も、五感もすべてが彼を求めている気がした。

「俺のものになって。お願い、……俺をすくって」
耳元で毒をしみこませるように囁く。泥の中まで落ちてきてくれと。

「三、郷」

震えた呼びかけと共に、気が遠くなるほどの緩慢さで細い両腕が三郷の背に回った。徐々に、徐々に、三郷が彼を抱きすくめているのと同じくらいに彼の力も強くなっていく。ぞくぞくと血液が歓喜する。

「好きだ―」
花びらが散るように、彼はそっと言葉にした。
ああ、嗚呼!
捕まえた、と頭の中に文字がひらめく。更に強くなった抱擁に、彼が小さく呻く。

捕まえた、やっと手に入れた、この男は俺のものだ、俺の。知らず、三郷の顔に笑みが広がっていく。

「先生、……俺がずっと大事にするからね」
彼の髪に口づけながら、三郷は大木の低い枝に花が開いているのを見た。

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