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嫌いなもの。炭酸に細かい活字、怒鳴り声。
好きなもの。カフェオレと平穏、それから加地さん。
「なる」
優しい声で呼ばれた。ぱちりと目を開けると、おれの顔を覗き込む加地さんがいた。おれは体を起こしてぺっこりと頭を下げる。
「こんにちは、加地さん。おはようございます」
「おはよう、なる。いい子だな」
遠慮なくセットした髪をぐしゃぐしゃする加地さん。加地さんだけがもたらすことのできる至福である。おれはへらへらと笑って、狭いソファーのおれが空けたスペースに座ってくれる加地さんのために体を端に寄せた。
本当は床に下りて加地さんのための快適な空間を作り出すのが正解だけれど、近くにいられる幸せを自分から逃したくはない。気付かない愚鈍なふりをしてしまう狡賢いおれ。
「加地さん、おれはずるい子です」
「その小さい頭の中で何を考えてたの」
自分の汚さを勝手に見つけて勝手にへこんで加地さんに懺悔まがいのことをする。加地さんはニッとそれはそれは格好よく、そして男らしく笑って自分の膝を叩いた。見上げると、おいで、と言ってまた膝をぽんぽんする。おれは今の今まで考えていたことを綺麗さっぱり忘れ、失礼します! と大きな声で言って加地さんの膝にダイブした。
すぐにひょーいと持ち上げられて加地さんの膝に向かいあうように座らされる。
「加地さん、かじさん。今日はみんな、遅いですね」
「今日は来るなって言ったから」
「えっ―加地さん、ごめんなさい。おれ、聞いてなかったどころか爆睡してました」
「なるはいいんだよ」
「そうなんですか」
「そうなんです」
知らずに、加地さんの言いつけに背いてしまったと一瞬肝が冷えたが、加地さんが頷いてにっこりしてくれたのでぽかぽかと温かくなった。「なるはいい」だなんて、なんて素晴らしくそして甘美な響きなのだろう。
加地さんを慕う仲間たちの中でもおれが一番加地さんが大好きだと胸を張って言える。
「加地さん、あったかいです」
「あったかいのはなるだろ。相変わらず子供体温だな」
背中と後頭部に手を回した加地さんが優しくぽんぽんとしながら抱きしめてくれる。おれは額を加地さんの肩にくっつける。
「おれ、暑苦しくないですか」
「いや、赤ん坊みたいで俺は好きだけど?」
「おれ、ずっと子供体温でいいです」
だから十年後も二十年後も抱きしめてくれますか。声に出さずに問いかける。
ずっと加地さんの傍にいられたなら、おれはとてつもない幸せ者だ。百人の人間の幸せを束にしても勝てないというくらい。けれどそんなことを口に出していうのは重くて面倒くさいやつだ。なので黙って加地さんにくっつく。
加地さんからはいつも紅茶みたいな香りの香水と煙草が混じった匂いがする。ものすごく安心するいい匂いだ。それに、加地さんにぴったり。
肩のあたりを無心でくんくんしていると加地さんがおれに顔をあげるよう促した。しぶしぶな気持ちと加地さんの命令だから喜んで! という相反した気持ちを抱きながら従う。大きな片手がおれの頬を挟むようにつかんだ。むにっとされて少し唇が突き出る。
「なんでしゅか加地しゃん」
そのまま喋ったらさ行がうまく発音できなかった。そんな間抜けな姿に加地さんはくくっと笑って、それからおれの顔をじーっと見た。
宇宙のような、吸引力をもった加地さんの黒目に釘付けである。
「―なーにが不安なの?」
囁くように言ったせいで少し掠れた声はとても色っぽかった。
力が緩んでゆっくりと撫でるだけになった加地さんの指の感触を頬に感じながら口を開く。
「なんにも、不安じゃないです」
「嘘つくな。なる、気付いてねえの?」
何がですか、と首を捻る。加地さんは目を細めた。照明の光が瞳に反射して潤みを帯びて光る。
お前、不安になると俺の匂いかぐんだよ、と口角をあげた唇で加地さんが言った。
「―変態みたいですね」
知らなかった自分の癖についてそう言及する。加地さんはなにも言わず、片手をおれの腰に回して強く引き寄せ、頬に触れていた指で唇をなぞった。
ふに、と確かめるように押されて急速に顔に熱を上らせるおれ。
「なにを不安になってるか知らねえが」
男らしくておれにとって最も格好いい顔がぐっと近づく。加地さんの吐息が唇にあたった。
「か、加地さ―」
「なるに俺から離れるなんて選択肢は存在しねえんだよ」
真っ白で鋭い犬歯を覗かせた加地さんはそう言っておれの唇に食らいついた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられて腕を動かすことも出来ぬままキスに翻弄される。
大混乱の頭の中に加地さんの言葉が光る。そうか、おれに選択肢はないのか。つまり加地さんは俺をずっと傍にいさせてくれるということだろうか。
加地さんからのキスとその言葉が相俟って嬉しくて嬉しくて堪らなくなる。ぶるりと体が震えた。
好きです加地さん。おれはいつか、全部喰われて、あなたの一部になりたい。
好きなもの。カフェオレと平穏、それから加地さん。
「なる」
優しい声で呼ばれた。ぱちりと目を開けると、おれの顔を覗き込む加地さんがいた。おれは体を起こしてぺっこりと頭を下げる。
「こんにちは、加地さん。おはようございます」
「おはよう、なる。いい子だな」
遠慮なくセットした髪をぐしゃぐしゃする加地さん。加地さんだけがもたらすことのできる至福である。おれはへらへらと笑って、狭いソファーのおれが空けたスペースに座ってくれる加地さんのために体を端に寄せた。
本当は床に下りて加地さんのための快適な空間を作り出すのが正解だけれど、近くにいられる幸せを自分から逃したくはない。気付かない愚鈍なふりをしてしまう狡賢いおれ。
「加地さん、おれはずるい子です」
「その小さい頭の中で何を考えてたの」
自分の汚さを勝手に見つけて勝手にへこんで加地さんに懺悔まがいのことをする。加地さんはニッとそれはそれは格好よく、そして男らしく笑って自分の膝を叩いた。見上げると、おいで、と言ってまた膝をぽんぽんする。おれは今の今まで考えていたことを綺麗さっぱり忘れ、失礼します! と大きな声で言って加地さんの膝にダイブした。
すぐにひょーいと持ち上げられて加地さんの膝に向かいあうように座らされる。
「加地さん、かじさん。今日はみんな、遅いですね」
「今日は来るなって言ったから」
「えっ―加地さん、ごめんなさい。おれ、聞いてなかったどころか爆睡してました」
「なるはいいんだよ」
「そうなんですか」
「そうなんです」
知らずに、加地さんの言いつけに背いてしまったと一瞬肝が冷えたが、加地さんが頷いてにっこりしてくれたのでぽかぽかと温かくなった。「なるはいい」だなんて、なんて素晴らしくそして甘美な響きなのだろう。
加地さんを慕う仲間たちの中でもおれが一番加地さんが大好きだと胸を張って言える。
「加地さん、あったかいです」
「あったかいのはなるだろ。相変わらず子供体温だな」
背中と後頭部に手を回した加地さんが優しくぽんぽんとしながら抱きしめてくれる。おれは額を加地さんの肩にくっつける。
「おれ、暑苦しくないですか」
「いや、赤ん坊みたいで俺は好きだけど?」
「おれ、ずっと子供体温でいいです」
だから十年後も二十年後も抱きしめてくれますか。声に出さずに問いかける。
ずっと加地さんの傍にいられたなら、おれはとてつもない幸せ者だ。百人の人間の幸せを束にしても勝てないというくらい。けれどそんなことを口に出していうのは重くて面倒くさいやつだ。なので黙って加地さんにくっつく。
加地さんからはいつも紅茶みたいな香りの香水と煙草が混じった匂いがする。ものすごく安心するいい匂いだ。それに、加地さんにぴったり。
肩のあたりを無心でくんくんしていると加地さんがおれに顔をあげるよう促した。しぶしぶな気持ちと加地さんの命令だから喜んで! という相反した気持ちを抱きながら従う。大きな片手がおれの頬を挟むようにつかんだ。むにっとされて少し唇が突き出る。
「なんでしゅか加地しゃん」
そのまま喋ったらさ行がうまく発音できなかった。そんな間抜けな姿に加地さんはくくっと笑って、それからおれの顔をじーっと見た。
宇宙のような、吸引力をもった加地さんの黒目に釘付けである。
「―なーにが不安なの?」
囁くように言ったせいで少し掠れた声はとても色っぽかった。
力が緩んでゆっくりと撫でるだけになった加地さんの指の感触を頬に感じながら口を開く。
「なんにも、不安じゃないです」
「嘘つくな。なる、気付いてねえの?」
何がですか、と首を捻る。加地さんは目を細めた。照明の光が瞳に反射して潤みを帯びて光る。
お前、不安になると俺の匂いかぐんだよ、と口角をあげた唇で加地さんが言った。
「―変態みたいですね」
知らなかった自分の癖についてそう言及する。加地さんはなにも言わず、片手をおれの腰に回して強く引き寄せ、頬に触れていた指で唇をなぞった。
ふに、と確かめるように押されて急速に顔に熱を上らせるおれ。
「なにを不安になってるか知らねえが」
男らしくておれにとって最も格好いい顔がぐっと近づく。加地さんの吐息が唇にあたった。
「か、加地さ―」
「なるに俺から離れるなんて選択肢は存在しねえんだよ」
真っ白で鋭い犬歯を覗かせた加地さんはそう言っておれの唇に食らいついた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられて腕を動かすことも出来ぬままキスに翻弄される。
大混乱の頭の中に加地さんの言葉が光る。そうか、おれに選択肢はないのか。つまり加地さんは俺をずっと傍にいさせてくれるということだろうか。
加地さんからのキスとその言葉が相俟って嬉しくて嬉しくて堪らなくなる。ぶるりと体が震えた。
好きです加地さん。おれはいつか、全部喰われて、あなたの一部になりたい。
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