右手でマッチの箱を弄びながら、左手でタバコを口元から離し、ゆっくりと煙を吐く。
物憂げなその様子に、少し見惚れた。
「…河鹿ちゃん」
「もしかして、何か邪魔した?」
キッチンのドアを閉めながら、微笑んでみせると。
椅子にかけたまま、サンジも笑った。
「全然」
「ごめんね」
向けられたのは、いつもと同じ曇りのない笑顔だったのに。
私は、なぜか謝ってしまう。
「釣り、終わっ…てねェよな」
甲板では、相変わらずルフィたちがはしゃぐ声。
シンクの方へ向かいながら、私は頷いた。
「私だけやめたの。釣れなくて」
「外、寒かったろ?」
「寒くて、乾燥してるよ。手、カサカサになっちゃった。あ、ここで、手洗ってもいいよね」
サンジが頷くのを見てから、水を出した。
石鹸を使って、丁寧に手を洗う。
「釣りって難しいね。練り餌だったからかな?生き餌なら釣れるのかなあ?」
「どうだろうな。おれも、釣る方は専門外なもんで」
「ウソップたちは、生き餌でいっぱい釣ってたんだよ」
洗い終えた手を、ハンカチで拭きながら、サンジの右隣の椅子に腰かけた。
「でもその生き餌、足がいっぱいある、もしゃもしゃした虫なの」
「うおっ。そりゃ、ぞっとすんな」
タバコを押し潰した灰皿を、向こう側へ遠ざけながら、サンジが苦笑いを浮かべる。
私は、喋りながらポケットを探り、
「あんなの触れないよねー」
「よっぽどの事がない限り、遠慮してェ」
「だよね。…あ、あった」
小さな容器を取りだして息をつくと、サンジが不思議そうな顔になった。
「河鹿ちゃん。それは?」
「ロビンが作ってくれたハンドクリーム。ミツロウとね、何かいろいろ混ぜて、オイルで香りをつけるの」
私のへたくそな説明に、サンジが可笑しそうに目を細める。
少しふくれて、指にとったクリームを、
「いいの!何が入ってるのかはわかんないけど、しっとりするんだから」
サンジの手の甲に塗りつけた。
外の寒さのせいもあって、ミツロウのクリームは、いつもより固い感触。
「花の香りだな」
笑いながら鼻を近づけ、サンジがクリームを嗅ぎ。
自分の分のクリームを手に取りながら、立ち上る香りを私も楽しんだ。
甘く優しい、穏やかな香り。
「カモミールだって」
「ハーブティーになるヤツか。そういや同じ香り…」
「あ!サンジ、そうじゃないよ」
ハンドクリームを無造作に伸ばすサンジに、思わず語気を強くしてしまう。
じっと私を見つめる眼差しの前に、両手を示し、
「最初にこうやってね、温めてゆるくするの」
クリームを乗せた掌に、もう一方の手で蓋をする。
数秒そうして、手を外しながら、
「そしたら、体温で溶けて柔らかく…あれ?柔らかくない」
示した掌には、乗せたままの状態のハンドクリーム。
私は首をひねり、もう一度手をかぶせる。
「おかしいなー。ロビンに教えて貰ったときは、すぐ溶けたのに」
「河鹿ちゃんの手が冷てェんじゃねェの?」
そう言って、私の手を挟むように包んだサンジの両手は、ふわりとして熱く。
浮かんだ微笑みと、同じくらい穏やか。
「やっぱり冷てェ」
「ホントだ。サンジの手、温かいもん」
笑ってみせたけど、なんだか変な感じ。
笑ったあと、どうしたらいいか判らなくて、口の端がムズムズする。
穏やかに微笑むサンジは、視線を手に落としたまま。
黙りこんだ私も、下を向いた。
「そろそろいいんじゃねェかな」
サンジが手を放すと、ふわりとカモミールの香り。
促されるまま、蓋にした手をゆっくりと外した。
「あ、溶けてる」
「おっ、ホントだ」
「溶けたら、こうやって広げるんだよ」
両掌を擦りあわせると、溶けたクリームが滑りながら全体に行き渡る。
「広がったら塗ってくの。手、貸して」
一瞬、ピクリと動いたサンジの右手を捕まえ、クリームを伸ばしていく。
花の香りが広がる。
どんな顔してるのかな、ちょっと困ってればいいのに。
そう思いながらチラッと目をやると、そこにはニヤニヤと笑み崩れるサンジの表情。
私は、小さく嘆息する。
でもまあ『らしい』のかな。
「全体にざっと塗ったら、次は爪とか、関節とか、指と指の間」
ロビンに教わったことを、思いだしながら、手を動かした。
爪の1本ずつに、親指の腹でクリームを塗り込み。
続けて関節と指の又にも、洩れがないようクリームを広げていく。
材料の油分で膚に光沢が出るから、塗り忘れにはすぐ気づく。
「塗ったら掌で押さえて、ちょっと温めて」
サンジの右手を両手できゅっと挟み、そう言った。
私の手より、サンジの手の方が温かいから、あまり意味はなさそうだけど。
「で、終わり。わかった?」
見上げるように覗き込んだ、サンジの瞳。
さっきの笑顔が嘘だったかのような、真剣な眼差しに、私は驚く。
「なんか、痛かったりした?」
「河鹿ちゃん」
口元でタバコを探す、左手の動き。
吸ってないことを思いだしたのか、微かに眉を寄せたサンジは。
私の瞳を、まっすぐ見つめた。
「もしかして、おれの事好きなんじゃねェ…痛ッ」
「あ、ごめん」
ツッコミを入れようと持ち上げた手が、乗り出してきたサンジの顎に当たってしまった。
歯がぶつかる音の後、サンジは左手で顎をさする。
一瞬、スゴく申し訳ない気持ちになったけど、そうなった原因を考えると、急に釈然としない気持ちが湧いてきて。
私は、頬を膨らませた。
「でも、なんでそうなるのよ!」
「なんでって…困ったな」
顎をさすりながら目を伏せ、少し考える様子を見せた後。
サンジは、ハンドクリームの容器に手を伸ばした。
両手で擦り合わせると、また花の香りが広がる。
「河鹿ちゃん、手ェ、貸して」
「は?…いいよ。私は塗り方わかってるから」
「おれが忘れそうだから、復習させてよ」
そう言われると、抗うのが躊躇われる。
黙って差し出した左手を、熱い掌が包み込んだ。
滑らせるように手を動かし、クリームを行き渡らせると、
「次は爪と、関節と、指と指の間」
サンジの指が、爪の1つ1つを撫で。
指の1本1本を、丁寧にさする。
私がやってみせた通りの柔らかい触れ方。
間違ってないけど、なんだか変な感じ。
優しく触られるって、ちょっと困る。
すごく特別なことみたいで。
でも、きっとそうじゃないのに。
手の隅々までクリームを行き渡らせると、サンジはゆっくり息を吐き、
「塗ったら、こうやって温めて」
両手で、私の左手を挟んだ。
頬が、少し熱くなる。
赤くなってたら、嫌だな。
「で、終わり。どうだった?河鹿ちゃん」
何もなかったような顔で、タバコを取り出すサンジに、妙な腹立たしさを感じながら。
私は左手を胸元に引き寄せ、返す言葉を探した。
波の音と、ルフィたちの話し声。
微かな花の香り。
今の私みたいに、サンジもちょっと困ればいいのに。
「サンジって」
「ん?」
同じことをされて、こんな気持ちになってるんだから。
言われた事を、そのまま返してみたらいいのかも。
マッチを擦ろうとする手元を見ながら、私は言葉を紡ぐ。
「もしかして、私のこと好きなんじゃないの?」
「好きだよ」
顔をあげると目に入る、タバコをくわえる口元に浮かぶ微笑み。
いつもナミたちに言ってるのと同じ、当たり前みたいな口調。
私も、そう返せば良かった。
そしたら、ちょっとくらいは、動揺させられたかもしれないのに。
さらりと返されたのが、なんだか口惜しい。
私が、負けてるみたい。
「そういう『好き』なら、私だってサンジ好きだよ」
「『そういう』って?」
意地になって言い返した私に、サンジは静かに問いかけた。
結局擦らなかったマッチを箱に戻し、火のついてないタバコを手に戻す。
「だから、同じ船に乗ってる仲間として!あの、家族みたいに好き…」
静かに私を見つめる瞳から、目をそらした。
ゆっくりと息を吐き、気持ちを落ち着けようとする。
「何言ってんだろ。変なの」
タバコをくるりと回す、サンジの指先。
「…変なの」
何をどうしたいのか、自分でもわからない。
『負けてるみたい』って思ったけど。
じゃあ、勝ちってどういうこと。
「河鹿ちゃん。こっちの手にも塗ってくんねェかな?」
私の視線の先に左手を示し、そう言ったサンジは、
「おれの事好きか、もう一回聞くから」
右手でタバコをもう一度回すと、テーブルに置いたマッチ箱に重ねた。
その動きを目で追ったあと、サンジの顔に視線を移す。
愉しげな笑顔が眩しくて、やっぱりくやしい。
「…だから、今言ったでしょ」
「そういうんじゃねェってこと、河鹿ちゃんも判ってんだろ?」
判ってるけど。
そういうの、なんだかズルい。
私、サンジの思い通りに動かされてるみたい。
「河鹿ちゃんは、困ってる顔も可愛いな」
「…そういうの、いいから」
唇を尖らせた私に、ハンドクリームの容器を握らせながら。
サンジは、耳元で囁いた。
「よくねェよ。そういうのも全部、好きだからな」
そんなのズルい。
くやしい。
やっぱり、サンジの思い通り。
私は熱くなる頬を隠すように俯き、呟いた。
「そっちの手、出して」
ハンドクリームを指先に取ると。
また、カモミールが香る。
《FIN》
2008.12.16
Flowers ー カモミール ー
Written by Moco
(宮叉 乃子)