あ、静かに眠ってる。
ベンチの背もたれに躰を預け、天を仰ぐような姿のゾロに近付き。
その顔にそっと手をかざして、掌に触れる熱い寝息を確認した。
静か過ぎると怖くなるのは、どうしてだろう。
ベンチから数歩進んで、池をぐるりと囲む柵に肘を乗せる。
手にした長い麩を振ると、目ざとい鯉が集まって来て、水面を揺らした。
「ルフィ!そりゃ、おれのみたらし団子だろ!」
「もふ、食っひまっは」
「取ってたんだぞ!」
首だけで振り返ると、茶店ののれんの向こう側で、ルフィとウソップがじゃれている。
「ケンカしなくても、次が来たわよ」
ロビンの言葉と同時に、山盛りのお団子が卓上に乗った。
上がった歓声を聞きながら、視線を戻す。
鯉が体をくねらせると、波紋が水面を広がっていく。
池に作られた小さな浮島には、今が見頃の花菖蒲。
どぷんと、大きな水音。
急かすような鯉の様子に、笑いながら麩を千切った。
手の中で粉々に砕いて、池に落とす。
「おい、大丈夫か!?」
「むぐぐぐぐ」
「お水は?」
「これ飲め、チョッパー」
騒ぎ声に驚いて、もう一度振り返った。
フランキーが、苦しそうなチョッパーの背中を叩き、ウソップが慌ててコップを差し出している。
コップを空けたチョッパーが、大きな息をつくと同時に、池でひときわ大きな水音が響いた。
握りしめた麩に、急に予想しない力がかかり、私はびくりと躰を震わせる。
「水音がうるさくて、眠れねェだろ」
折り取った麩を指先で崩しながら、あくび混じりにゾロがぼやく。
それを真似るように、麩の先を指で潰しながら、私は、
「みんなの方が騒がしくない?」
「あっちには耳が慣れてる」
柵に肘をついて、空になった手で再び麩を折り、ゾロは笑った。
鯉が水面でぶつかり合って起きたさざ波が、浮島に届いて飛沫をあげる。
「あ、亀」
浮島の、花菖蒲の手前。
飛沫を浴びた甲羅が、濃く色を変えて、急に景色から浮き立つ。
「河鹿」
ちょいちょいと、ゾロが違う浮島を指差した。
そこには、亀が三段に重なって、のんびりと甲羅干しをする姿。
思わず吹き出しながら、注意深く辺りを見渡すと、浮島だけでなく手前の陸地にも、大小様々の亀がのんびりと佇んでいる。
「沢山いるね」
「名物だとか言ってたな」
茶店を親指で示し、麩を全て池に落とすと、ゾロは伸びをしながらベンチへ戻って行く。
私も、残る5cmほどの麩を両手ですり潰してから、物足りなさそうに跳ねる鯉に、空の掌を見せた。
「おっさん、餅も追加なー」
ルフィの元気な声と同時に、鯉はゆったりと四方に散って行く。
静けさを取り戻した水面を柔らかな風が撫で、花菖蒲もゆらゆらと揺れた。
甲羅を濡らしたさっきの亀が、あおられたようにノロノロと歩き出す。
「ゾロ。亀、歩いたよ」
「当たり前だ」
ベンチのゾロに話しかけると、呆れたような言葉が返ってくる。
「そうだけど!でも、あっちの重なってるやつとか、ちょっとも動かないんだよ」
「今まで、見たことねェのか?」
「…それは」
そういうわけじゃないけど。
ただ『そうだな』と、言ってくれれば、心が満たされるのに。
ほんの少しだけ特別で、幸せなものが欲しい。
だけどやっぱり、望んでも叶わないんだ。
「いい、忘れて」
頭の後ろに腕を回し、ゾロは、何も言わずに目を閉じた。
それが、ひどく私を悲しくさせる。
あの亀くらいの速度でもいい。
少しずつでも距離が縮まっているのなら。
けれど多分、船に乗った時から何も変わっていない。
閉じたゾロの瞼。
その皮膚一枚が、きっぱりと告げている。
私たちは仲間で。
それ以上の何でもない。
深く、長い息を吐きながら、柵に肘をついた。
「餅。餅、甘っ」
「甘ェなー。おっさん、次、煎餅くれ!」
「煎餅は置いておりません」
茶店から聞こえてくるはしゃいだ声が、私の悲しみをくっきりと浮き立てた。
あの楽しい輪から離れて、わざわざゾロの近くに来たのに。
側にいても、ただ、それだけ。
それを思い知るだけ。
静かな水面に、花菖蒲が映る。
美しく穏やかな景色ですら、私を癒せない。
ただぼんやり、水鏡を見つめ続けていると、視界の端で何かが動いた。
──さっきの亀。
水面に、ゆっくりと近づいている。
「河鹿、ゾロ。抹茶頼むけど、飲むわよね?」
急に声をかけられ、振り向くと、ナミがのれんを掻き分けながら首を傾げている。
「うん、飲む」
「……」
何度も頷きながら、返事をした私とは対照的に、ゾロは目を閉じたまま微動だにしない。
瞼を半分落とし、静かな怒りを表してから、
「ま、飲むでしょ。文句は言わせないわ」
肩をすくめて、ナミは店内に戻っていく。
続いて、人数分の抹茶を注文する声が聞こえてきた。
同時に、小さな水音。
水に飛び込んだ亀が、水面に映る花菖蒲を横切り。
そのままするすると、滑らかに浮島の奥へと泳ぎ去る。
「うわ」
泳ぐと早いんだ──当たり前か。
ゾロに話しかけようとして、思い止まった。
言っても呆れられるだけ、それなのに。
緩やかに池の端まで広がる波紋が、私の中のなにかを刺激した。
「なんだ、急に?河鹿」
早足で、茶店の方へ進み。
勢いをつけてベンチの端に掛けると、ゾロが不思議そうに目を開いた。
「だって動かないから」
「あぁ?」
額に左手を当て、眠たそうに目をしばたかせてから、ゾロは大きなあくびをする。
泳ぐ亀の姿を思い出しながら、
「だから、怖くなって」
私は、言葉と勇気を絞りだした。
見上げた横顔の瞳が怪訝そうに細められ。
私は、俯いてしまいそうになる顔を、懸命に上げつづける。
「生きてるかどうかくらい、見りゃわかんだろ」
ガリガリと頭をかきながら、ゾロはもう一度あくびをした。
「そんな事いちいち考えてて、面倒じゃねェのか、お前は。集団生活だろ」
「そうじゃなくて、ゾロだけ」
「あ?」
ゾロの寝顔だけが。
ふとした不安に掌をかざして。
ひそやかな寝息が触れたら、幸せな気持ちになれる。
ゾロの傍らで眠りに落ちながら、それを味わえたら、どんなに──。
「塩豆大福って、甘くねェけどうまいな」
「おー、うめェな。サンジ、今度から、これもオヤツにいれてくれ」
「口にものを入れたまま喋るんじゃねェ。先に飲み込め」
茶店から聞こえてくる声に、はっとなる。
今は、あの輪の中を外れてる。
だけど、仲間である事は辞めたくない。
みんなで楽しく過ごす時間も、捨てたくない。
「……」
片手を頭に置いたまま、ゾロが空を見つめる。
私の言いたいことを、わかっているのかわかっていないのか。
その答えが見つけられなくて、思わず視線を外した。
柵の向こう側に、花菖蒲の紫が覗く。
勢いを失った私には、踏み出した一歩が重たい。
すいすいと泳ぎ進むのは、まだ無理だったんだ。
「ゾロも」
私の寝顔を見てたら、その気持ちがわかるかも。
試してみればいい。
わからなくても許すから。
そう、努力するから。
言いたい事は、ちゃんと知っている。
だけど、逃げ道を残したまま、それを伝えるための言葉が見つからない。
「ロビン。抹茶ってなんか、苦い匂いするぞ」
「お砂糖入れたら?」
「貰ってきてやるから、ちょっと待ってろ」
「おー。ありがとな、サンジ」
楽しげな店内、黙りこむ私たち。
紫の花がちいさく揺れるのを見つめながら、汗ばむ手を握りあわせた。
今のゾロの表情を知りたい。
だけど、確かめるのが怖い。
「おめェら、抹茶がきたぞ」
背後からかけられた声に、ふつりと緊張の糸が切れた。
妙にほっとした私は、静かに息をつき、振り向く。
「うん、すぐ行く」
腕を組んだまま、のれんを肩でかき分けたフランキーは、何か言いたそうに口を少し開いて。
だけど黙ったまま視線をそらし、軽く頷いた。
私が立ち上がったのを確認して、フランキーは店の中へと戻っていく。
ゾロが腰をあげる気配に、思わず視線を向けた。
浮かんでいるのは、ほっとしたような表情。
──ああ、判ってるんだ。
私の視線に気付いたのか、ゾロは一度目をふせ、
「行かねェのか、河鹿」
「先にいいよ」
「…ああ、わかった」
前を通りながら、私の額を軽くはたいて、いつものように笑った。
良かった。
仲間としての居場所は、ちゃんと残ってる。
笑顔を返しながら。
だけど感じる、一抹の寂しさ。
後に続こうとした私の、視界に入る池の浮島。
花菖蒲の根元にはまだ、三段重ねの亀がいる。
込み上げるほろ苦い味を抑えようと、深呼吸して目を閉じた。
瞼に浮かぶ亀のイメージを、振り切るように踵をかえして、勢いよくのれんをくぐる。
「うぉーい、河鹿。こっち空いてるぞ」
「餅、美味ェぞ。餅」
口中を食べ物でいっぱいにしながら、ウソップとルフィが手を振ってくる。
言われるままに、ウソップとルフィの間の椅子にかけると、砂糖壺を手にしたサンジが戻ってきた。
「てめェ、マリモッ。そこはおれの椅子だ、どきやがれ!」
「あっちが空いてんだろ」
「アホかっ!ナミさんとロビンちゃんの間の椅子と、タヌキと鼻の間の椅子が、同じ価値だと思ってんのか!!」
面倒臭そうに耳をふさぎながら、ゾロが椅子を変えた。
ウソップの反対側に掛ける直前、一瞬だけ視線がぶつかる。
かすかに口角を上げたゾロの姿に、抹茶をすする私の鼓動が跳ねあがった。
浮島を歩く亀の一歩。
もしかして、そのくらいは近付いてたのかもしれない。
まだ、先はかなり遠そうだけど。
《FIN》
Flowers - iris & tortoise -
2008.06.29
Written by Moco
(宮叉 乃子)