ドアを開けると、生ぬるい風が肌を撫でた。
見上げた夜空には、濃い色の重たい雲。
ひと雨くるのかも。
でも、ナミがぐっすり眠っていたから、航海に影響はないんだろうけど。
音を立てないように、階段を下った。
展望室以外の灯りが消えた船上に響く、絶え間ない波音。
耳が慣れてしまった今では、当たり前過ぎて子守唄にはなってくれない。
露を含んだ芝生が、サンダルの足先に触れた。
「河鹿ちゃん?」
「ぎゃっ」
はね上がった鼓動を抑えるように片手を胸に当て、眉を隠すべく前髪を弄りながら。
私は、声の主に向かってぼやいた。
「もう!びっくりしたよー」
「ごめん」
片手に毛布を抱え、空いた手を顔の前で立てるようにしながら、サンジが笑って頭を下げる。
揺れた髪から漂う、タバコの香り。
「タバコ吸ってたの?」
「あー。まあ…」
サンジが言葉に詰まる。
と、その瞬間を狙いすましたように、男部屋から漏れてくるイビキ。
複数があわさって響く、その破壊力を想像して、私は思わず顔をしかめた。
これは、同じ部屋の中はツラい。
「…寝付けねェもんで。キッチンのソファーあたりに移動しようか、と」
「…それがいいかもね」
「河鹿ちゃんは、どうした?」
毛布を抱えなおしながら、サンジが目を細める。
風がマストをあおる、バタバタという音が止むのを待って、
「目が冴えちゃって。なんか飲もうかなって」
指で、乱れた髪をすきながら、そう答えた。
「じゃあ、ホットミルクでも」
「え?でも」
「キッチンは、コックの領分。じゃ、行こうか」
背中にポンと掌が当たり、私たちはキッチンに向かって歩き出した。
他愛ない話をしながら着いたキッチンには、甘ったるい香りが残っている。
「美味しそうな匂い。何か作ってたの?」
「リンゴが安かったもんで、ジャムをたっぷり」
示されるまま、スツールに腰をおろして尋ねると、サンジは笑ってシンクを指差す。
その先には、ジャムが詰まった、大きな保存ビン。
「そっか。減りが早いもんね。ジャム」
チョッパーはいつも山盛りのジャムを、トーストやホットケーキに塗ってるし。
本を読むロビンが、片手でつまめるサイズのジャムサンドは、私もご相伴にあずかった事がある。
「でも、それ作ってたから寝そびれちゃったんだ?大変なん…」
サンジは毛布を置いた手で、私の前髪を撫で、言葉の先を封じた。
笑顔のまま冷蔵庫へと向かった背中を、黙ったまま見つめる。
つまらない事、言っちゃったな。
しんと静かなキッチンに響く、鍋にミルクを注ぐ音。
優しく、柔らかいその音を聞きながら、組んだ手の甲に額を当て、目を閉じた。
鍋を火にかける音を聞き、サンジの作る穏やかな雰囲気を味わって。
それでも残る心ぐるしさを、小さなため息に混ぜ、気付かれないよう吐き出した。
「河鹿ちゃん」
はっと顔をあげた。
ぼんやりと沈み込んでいた私に、優しい笑顔を向けながら、サンジがカップを差しだしている。
「ありがとう」
両手で包み込むようにして受けとると、ほんのり伝わってくる温かさ。
「これ、おまけな」
言葉と同時に、何かがふわりとカップに落とされた。
いくつかの、小さな紫色の花。
花にまぶされた砂糖が、少しずつ透明になり、溶けていく。
スプーンを軽くゆすぐサンジと、ミルクに浮かぶ菫を交互に見つめ、
「こういうのも作るんだ?」
「レディたちの麗しい瞳を楽しませるのも、コックの仕事なんで」
ニカッと笑うサンジに、笑顔を返しながら、カップに唇を寄せた。
上唇に砂糖漬けが当たって、くすぐったい。
ゆっくりと時間をかけ、全てを飲み干し、
「美味しくて、キレイだった。ありがとう」
そう言うと、サンジは本当に嬉しそうな表情をした。
「眠れそう?」
「なんかホッとしたから、多分」
「もう一杯、作ろうか」
首を横に振って、立ち上がる。
「私、戻る。サンジも眠って?朝も大変なんだし」
「……」
「付き合わせて、ごめんね」
へらっと笑うと、サンジは首を振りながら弱い笑顔を浮かべ、マグカップを手早く洗った。
「部屋まで送るよ」
「え?いいって。船なんだから」
「じゃ、外で見送るか」
差し出された手は最初、ひんやりと冷たく、だけど次第に伝わる、心地よい温かさ。
「サンジは」
「ん?」
向けられた屈託のない微笑み。
何を言おうとしていたのか、自分でも判らなくなって、
「ううん。なんでも」
ただ、曖昧に笑った。
ドアを抜けたとたん肌を撫でた風は、さっきよりも生ぬるく。
むっと押し寄せる湿度に、私は顔をしかめた。
「ちょっと凄いね、これ」
「寝苦しくなりそうだな」
「うわ、やだな」
話をしながら歩を進め、ジャンプするように階段を一段下った時、
「河鹿ちゃん」
「うん?」
振り仰ぐと、真面目な眼差し。
つられて口許をきゅっと引き締めながら、私は微かに首を傾げた。
「ホントに、何でもない?いや、おれには言えねェとかなら、いいんだ」
かすかに寄せた眉の傍らで、金の髪がぬるい風に揺れる。
きゅっと、胸が詰まった。
サンジだって、眠れてないのに。
私の飲み物だけ作って、優しくするばかりで。
サンジは眠れない夜、誰に優しくして貰うんだろう。
「河鹿ちゃん」
心配そうな声音に、我に返った。
翳る瞳を、慌てて見つめ返しながら、
「ホントに、目が冴えてただけ。何にもないよ」
笑顔を見せても、変わらないサンジの表情に焦って、なるべく冗談ぽく聞こえるように続けた。
「だいたい、サンジに言えない事って、何?」
少し瞼を落として、遠い眼差しになった後、サンジは瞳を閉じ、笑った。
「さあ。何だろうな」
『変なの』と、笑おうとした瞬間、再び開いたサンジの瞳に、
「そうじゃねェならいいんだ」
胸が激しくざわめいた。
いつもみたいに、デレデレしててよ。
そんな顔しないで。
思いのほか真面目だから、見つめ続けてしまうじゃない。
同じ状況なら、ナミにもロビンにも同じようにする人。
それが判っていても、目が離せない。
身長差と段差で、俯くように首を下げたサンジは、静かに私を覗きこみ。
ただ引き込まれるように、その瞳を見つめ返しながら、次第に高まっていく鼓動に驚く。
ゆっくりと吐いた息が上唇を揺らし、砂糖漬けの小さな花の感触が思い出された。
そういえば今のサンジって、菫の花みたい。
深く、俯くように首を曲げて、すごく静かで。
急に掌に圧力を感じて、私はびくりと躰を震わせた。
そういえば、手を繋いだまま。
掌の感触にまで気を取られ、混乱していく頭の中。
こういう時どうすれば、仲間として正しいんだろう。
サンジの髪が、目の前で風に揺れる。
近い──
「ん?」
不審そうに眉をひそめ、片手をうなじに乗せてから、サンジは空を仰いだ。
暗灰色の空が縁取るサンジの顎を、ぼんやりと眺めた私は、
「あ…」
頬に当たった冷たい滴を、指先で拭った。
「降ってきたな」
私を見ながら、サンジは静かに笑った。
ほっとしたような表情に、ちくりと胸が痛む。
雨が当たらないよう、顔の少し上にかざされたサンジの掌。
もう片方の手はまだ、私の手と繋がっている。
サンジの指の隙間を抜けた雨粒が、私の額を濡らした。
「あの。ホットミルク、ごちそうさま」
言葉が少し、早口になってしまった。
目を細めたサンジは、小さく頷いてから、再び首の後ろに落ちた雨を拭う。
「サンジ」
「うん?」
「ありがとね」
手に当たった雨が、下へと流れ落ちていく。
今度は小さく首を振ったサンジに、
「じゃ、サンジは戻って。眠って」
腕に手を添え、ぎゅっと押した。
「河鹿ちゃん」
「いいから。入って」
微妙な表情のサンジを、キッチンの中へと押し戻す。
後ろ足のサンジが少しよろけて、私は繋いだままの手をぎゅっと握った。
「悪ィ、河鹿ちゃん」
手を握りしめたまま、サンジの躰の向こうに、ソファーを眺めて。
このまま手を離さなかったらどうなるかを、一瞬だけ考えた。
ジャムの甘い香りが、辺りを包む。
「どうした?」
「ううん。…やっぱり、美味しそうな匂いだなぁって」
「…朝メシ、ジャムサンドにしようか」
「うん」
どこかぎこちない言葉を交わしながら、繋いだ手に視線を落とし、ゆっくりと引いた。
一瞬の間をおいて、サンジの手がするりとゆるむ。
自由になった手から感じる、少しの淋しさを隠して、
「朝ごはん、楽しみ」
ドアに手をかけ、頑張っていつものような笑顔を作る。
何かを言いたそうなサンジに、小首を傾げてみせたところで。
つむじに当たった雨粒に、私は首をすくめた。
一瞬訪れた沈黙が、嫌じゃないけど、こわい。
あまりに、いつもと違うから。
サンジがこちらへ一歩踏み出し。
私は、足下からせり上がる感情を、誤魔化そうと慌てた。
「私、戻る。…戻るね」
サンジの動きが止まり。
僅かな間のあとに、浮かぶ笑顔。
「やっぱり部屋まで送るな。雨、強くなってきたろ」
「走るから」
私の言葉を無視して、サンジはキッチンの奥から傘を探してきた。
「おっ。すげェな」
外に差し出した傘が、雨を弾いて音を立てる。
「あの、一人で」
「えっ?お姫様抱っこで、送って欲しい?」
「言ってないよ!もう」
傘の下。
肩をぶつけ合いながら、ひとしきり笑いあい、
「お望みなら、いつでも喜んで」
「ないない、ないから」
軽口を叩いて、また笑う。
良かった。
これなら、いつも通り。
ほっとしながら、弾むように歩いて甲板を渡り。
雨音にも負けない、男部屋のイビキを聞いて、また笑った。
女部屋のドアを開けながら、サンジを見上げ、
「ありがと」
差し出されていた傘を、部屋の中から押し戻し、微笑んだ時。
サンジの手がすっと伸びてきて、私の髪を撫でた。
「あ…」
「いい夢を」
その眼差しが、また私を落ち着かなくさせ。
『いつも』を取り戻す言葉を探すけれど、うまく見つからない。
サンジは、私の気持ちを知ってか知らずか、ただ穏やかに笑った。
「おやすみ、河鹿ちゃん」
ドアが静かに閉まる。
階段を下って行く足音を聞きながら、つめていた息をゆっくりと吐き出した。
「あれ」
ドキドキがおさまらない胸に手を当て、忙しくまばたきを繰り返しつつ、私はベッドとドアを交互に見つめる。
「あれー?」
全然、眠れそうにないんだけど。
ため息をつくと、ホットミルクの香りが鼻に届き。
舌によみがえるミルクの味。
「……」
もし、もう一杯飲み物をもらいに行ったら、どうなるんだろう。
試してみる価値、ありそうかな。
《FIN》
Flowers - 菫 -
2008.06.16
Written by Moco
(宮叉 乃子)