Flowers | ナノ
紫陽花

「サンジ!」

前をゆく背中に、駆け寄りながら呼びかけた。声が明るく、屈託なく響くよう気をつけながら。

「河鹿ちゃん」

振り向いたサンジが、笑顔なのを確認して、私は心の底からほっとした。
だけど、私の周りを確認するように動いた視線に、次の瞬間悲しくなってしまう。

『ナミさんとロビンちゃんは?』
そう聞かれる前に、私は口を開いた。

「ナミたちとはぐれちゃって」
「うん」
「…捜すより、船に戻った方がいいかなって」

サンジは小さく笑っただけで、なにも言わない。
私は多分、嘘をつくのが下手だ。

息をひそめてサンジの隣を歩きながら、さっき別れたばかりのナミとロビンの事を思った。

2人はきっと、呆れている。
私も、自分に呆れている。

なのに止められない。
声を聞きたくて、少しでも側にいたくて、見つけた背中を追いかけてきてしまう。

穏やかに微笑むサンジの瞳に浮かぶ、密やかな翳り。

「降りそうだね」

それに気づいた途端、黙っていることが怖くなって、私は急いでそう言った。

黒い雲に覆われた空は、どんよりと重い。生ぬるい空気に包まれた躰を、時折、冷たい風が撫でてゆく。

「河鹿ちゃん、近道しよう」

優しい声でそう言って、サンジが大きな公園を指差す。

「傘もねェし、急いで帰った方がよさそうだ」
「…うん」

仕方ないと判っていても、胸が苦しくなった。
少しでも長く側にいたい。

サンジはタバコを探しながら、私の前を横切り、公園へ向かってゆく。
小走りで後を追い、一歩下がった位置で歩く速度をあわせた。
背中を見つめ、独り胸を焦がす。

「わぁ」

ひと気のない公園は、紫陽花でいっぱいだった。
赤っぽい花と青みがかった花が、同じ色同士集まったり、混じりあったりしながら、公園に彩りを添えている。

「キレイ」
「満開だな」

タバコをくわえながら、花に目を細めるサンジの横顔。私は、その姿に満足する。
サンジの笑顔を、全部覚えておけたらいいのに。

ケロッ。
聞こえた小さな鳴き声の方に、視線を向けた。紫陽花の葉と葉の間から、真っ黒な瞳が覗いている。

上側の葉を持ち上げると、緑色のアマガエルが現れた。
サンジが葉っぱに顔を近づけたあと、腕を組み、呟く。

「食うには小さすぎるか?」
「可愛いからダメ!」

慌てて、サンジを止めた。
さっき紫陽花に向けられていた優しい眼差しが、今度は私を見つめる。

「そうだな」

胸が高鳴った。
けれど、火をつけないままのタバコを摘み、静かに目をふせたサンジは、

「カエルは、ナミさんが嫌がるから」

胸が苦しい。

紫陽花の前にしゃがんで、カエルの乗る葉っぱを強く引っ張った。手を離すと、紫陽花が大きく揺れる。
カエルは驚いたように跳ねたあと、いなくなってしまった。

虚しさだけが心に残る。

「ん?…まずい、降り出した」

しゃがんだまま、サンジを見た。
空を仰ぐサンジの顎のラインだけでは、何を考えているのか窺い知ることはできない。

真似するように空を見上げた。大きな雨粒が、次々と落ちてくる。

「河鹿ちゃん」

軽く腕を引かれて、我に返った。
向けられた微笑みの中に、微かな曇りを感じ取り、私は思わず身を強ばらせる。

サンジが、静かに息を吐いた。

すると、拭ったように曇りはかき消え、優しい笑顔だけがあとに残る。
気を使わせている。

「雨宿り出来るところまで走ろう。風邪ひいちまう」

言い聞かせるような口振り。
サンジの今の微笑みは、私を切なくさせた。

私の想いは、サンジにとっては重たいばかりなのかもしれない。
けれど、隠しきれない。

次々と込み上げてきて、溢れだすばかり。

「行こう」
「…うん」

雨が、膚を濡らしはじめていた。
色の変わった地面を踏みながら、シャツの背中を追い、公園中央の木立を目指す。

木陰に飛び込んだ瞬間、雨足が急に激しくなった。
大きな雨音が、辺りに響き渡る。

「河鹿ちゃん、あの下まで行こう」
「あそこの四阿?」
「この雨じゃ、屋根のあるとこじゃねェと…」

促されるまま木陰を進み、四阿の下に入った。
強さを増すばかりの雨が、生い茂る枝葉をくぐりぬけ、木々の根元に滴を落とし始めている。

「すごい雨」

ハンカチで、顔と腕を拭った。
まだ乾いている面を、サンジに貸すのはどう思われるか──
躊躇いながらサンジを見ると、濡れたシャツが腕に貼り付いているのが目につく。

急にまとわりつくガーゼワンピースが気になって、私は少しずつ生地を引っ張り、膚から離そうとした。

「河鹿ちゃん、寒くねェ?」

顔についた滴を片手で拭うように落とし、サンジは湿気ったタバコを灰皿に捨てた。そして、新しいタバコに火をつける。

こちらを見つめる眼差しには、気遣いの色しかなく、私は何故か後ろめたい気持ちになった。

「走ったから平気」
「ナミさんとロビンちゃんは、濡れてねェかな」

笑おうとした唇が、嫌な感じに震える。
それに気付かれないよう横を向いて、私は静かに息を吐いた。

「大丈夫だと思うけど。だって」

ショップで、一緒に服を選んでいたのが、ほんの10分前。
2人が、まだ店の外に出てないことくらいは見当がつく。

「だって?」

サンジの問いかけに、私ははっと口をつぐんだ。
さっき、嘘をついたばっかり──

深く俯きながら、私は誤魔化すための言葉を懸命に考えた。

「ナミ、天気には敏感だから…」
「そりゃそうか。ナミさんだもんな」

タバコの香りが漂ってきた。
深く息を吸いこむと、雨で冷え始めた空気が鼻の奥にしみる。

屋根を打つ雨音の大きさに、心をかき乱されてゆく。
2人きりが苦しい。

望んで追いかけてきた。
それなのに、どこで間違えてしまったんだろう。

急に、世界が白く光った。

はっと顔を上げると、四阿の側に咲く紫陽花が、激しい雨に打たれて揺れているのが目に入る。
次の瞬間、雨音をかき消すような雷鳴が轟いた。

急に、タバコの香りが強くなる。

「河鹿ちゃんは、雷怖くねェの?」
「音はちょっとイヤだけど」

屋根から滝のように水が流れ落ち、この四阿と外界を遮断する。
水煙に紫陽花がけぶる。

すぐ横でタバコをくゆらすサンジに、視線を向けた。
暗い世界の中、サンジだけがあまりにも目映い。

「…けど、大丈夫」

絞りだした言葉が、届いたのかはわからない。サンジはただ、穏やかに微笑んでいる。

降りしきる雨。再び響く雷鳴。

汗が引き、急に冷え始めた躰を掌でさすっていると、小さなくしゃみがこぼれた。

「河鹿ちゃん、寒いんだろ?」

気付かれたくなかった。気遣わせてしまうから。
サンジは慌てたようにタバコを消し、

「掛けてあげるものがねェ。…ごめんな、河鹿ちゃん」

私の背中を、さするように撫でる大きな手。
伝わる体温に息がつまる。

ぎゅっと閉じた瞼越しに、感じる稲光。続く轟音に怯えるふりをして身を竦めた。
でも、そうしてサンジの掌をかわした瞬間、胸を締め付けるような激しい喪失感に襲われた。

ひんやりとした風が、四阿を通り抜ける。
少しでも躰を温めようと、自分を抱きしめるようにしながら腕をさすった。

「河鹿ちゃん」

心配そうな声とともに、また感じる温もり。
抱かれた左肩が大きく跳ねた。

「風邪ひいちまったら大変だ」

見つめた紫陽花が滲む。
肩の温もりが伝わったのか、目頭が熱くてたまらない。

目映い雷光が、紫陽花の色を白く飛ばした。
サンジはすぐ隣にいる。

そして、まだ近い雷鳴。

「河鹿ちゃん」

サンジの胸に頬を押し付けながら、私はもう後悔し始めていた。
握りしめたサンジのシャツは、しっとりと湿っている。

左肩にあった手が動いて、私の頭を撫でた。
その喜びを味わいながらも、胸の喪失感は何故か埋まらない。

ただ、悲しくなるばかり。

「…ごめんね」
「謝られることなんか、なにもねェから」

そっと顔を上げると、すぐ側にサンジの顔があった。
右の瞳が、心配そうに私を見つめている。

「嘘」
「ホント」
「そんなわけない」
「雷を怖がるレディを抱き締めるってのは、なかなかいいシチュエーションなんじゃねェかな」

優しい笑顔。
でも、ふわふわとした心地良い言葉に自惚れられるほど、私は愚かにはなれない。

サンジの瞳の中で、私の表情がぐしゃぐしゃと歪んでゆく。

「河鹿ちゃん…」
「突き放していいのに」

サンジの表情が翳っていくのを、私はじっと見ていた。

「河鹿ちゃん…」
「冷たくされたら、諦めるかもしれない」

空々しい響き。
目を伏せたサンジの眉間に、苦痛を受けた時のような深い皺が刻まれた。

私は嘘が下手すぎる。

雨が屋根を打つザアザアという音が、やけに耳につく。

「でも、河鹿ちゃん。おれは」

笑顔が見たいのに、どうして悲しい表情をさせてしまうんだろう。
ひとつも上手く出来ない。

「レディの悲しむ顔を見るのは、辛ェんだ」

今だって、私は充分悲しい。

込み上げてくる苛立ちと、もどかしさのまま、私はサンジにしがみついた。
背中に回した両手に力をこめ、躰をぎゅっと押し付ける。

サンジの掌が、髪や背中を優しく撫でる。そうされる度、とろけてしまいそうな喜びを感じる躰。
でも、心はどんどん冷えてゆく。

私じゃなくても、求めればきっと等しく与えられる温もり。
それが判っているのに、諦めてしまえるほど賢くもなれない。

こんなに近くにいるのに。
私たちは、お互いが悲しみを積もらせてゆくのを、ただ感じているだけ。

「河鹿ちゃん」

どれくらいそうしていたのか。
弱まってきた雨音に混じって遠雷が鳴ると、サンジは私の両肩に手をかけた。

「雨、止みそうだ」

静かな囁きに顔を上げた。
その動きを利用するように、サンジは優しく私の肩を離す。

「うん」

背中に回していた手を胸元に引き寄せ、私は一歩後ろにさがった。
辺りが少し、明るくなっている。

普段と変わらない表情に戻ったサンジが、新しいタバコをくわえ、マッチを擦った。

「んっ?」

勢いが弱かったのか、炎は上がらない。もう一度擦ると、マッチは2つに折れてしまった。
サンジは僅かに口の端を上げ、次のマッチを取り出す。

「クソッ、変だな」

また着火しなかったマッチを、サンジは苛立たしげにもう一度箱に近付けた。

ようやく火がつくと、サンジは安堵したように息を吐く。

見つめる横顔は左側で、瞳に浮かぶ感情を確かめる事は出来ない。
だけどタバコをくわえた唇が、ほんの少しだけ震えるのを、私は見てしまった。

「…サンジ」

私に優しくして、それで傷ついているなんてバカだ──サンジはバカだ。

はっきり見えるようになった紫陽花の葉の上を、大きな水滴が伝い落ちてゆく。

「いつまで、私にこういう風に優しくするの?」
「ん?」
「もう…いい。いいから」

煙を天井に向かって吐くと、サンジはしばらく黙りこんだ。

「…そうだな」

紫陽花の方から、カエルの鳴き声が聞こえてきた。

これ以上、サンジを傷つけない為なら、どんな事をしてもいい。
私は覚悟を決めて、続く言葉を待った。

「河鹿ちゃんが、おれの──特別なレディになるまで」

タバコをふかすサンジからゆっくりと目をそらし、私は真っ直ぐ前を見た。
紫陽花が、何事もなかったように咲き誇っている。

「それ、ズルくない?」
「どうかな」

サンジの吐いたタバコの煙が、風に流れた。

「…大っキライ」

私の嘘も風に混じり、紫陽花を揺らして消えて行く。
霧雨がまだ、辺りを柔らかく濡らしている。

《FIN》

2009.06.14
Flowers - 紫陽花 -
Written by Moco
(宮叉 乃子)

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