冷たい空気と、澄んだ青空。
女部屋のドアを閉めると、手にしたロックグラスの中で、水がたぷんと跳ねた。
横に広く、背の低いグラスにかかる、針金で緩く編まれた小さな網。
その上に置かれた球根から、まっすぐに伸びた茎と、白い花。
さっき花開いた水栽培の水仙を、キッチンにいるサンジに見せに行く。
私はいつも、会いに行く理由を探している。
「影踏んだぞー!次、ウソップが鬼な!!」
「しょーがねェなー、いくぞー!いーち…」
「逃ーげろー!」
「ヨホホ。忙しいですね、これ」
芝生の甲板で、ルフィとすれ違った。
チョッパーとブルックも、思い思いの方向へ駆けて行く。
「もっと影が長くなってから、やればいいのに」
靴に張り付く小さな影を見下ろし、私はボソリと呟いた。
踏むのが大変そう。
メインマストの側で、数を数えるウソップを見ながら、キッチンに続く階段へ。
グラスを通り抜けた陽光が、ステップの上できらりと煌めいた。
「じゅーう、っしゃ!行くぞ!」
ウソップの声を聞きながら、小さな鏡で笑顔をチェックした。
いい表情をキープしたまま、私はドアを開ける。
「河鹿ちゃん」
キッチンに入ると同時に、感じるサンジの気配、そして優しい呼び声。
躰中に満ちる、温かさと喜び。
自然とほころぶ口元を片手で隠し、鏡の前で何度も練習した、最上の笑顔を作ってから、
「サンジ。あのね、水仙が咲いたから。キッチンに飾ったらいいかなーって」
サンジのいる、シンクの方へ近づいていく。
戦い終わったあとのボロボロな姿や、寝起きのボサボサ髪。
チョッパーたちとやった、変顔大会も見られてしまっているのに。
今は、いいところしか見せたくない。
すべてを可愛いと思って欲しい。
「あ、包丁使ってる?」
包丁を使ってる時のサンジの近くには、寄らないことにしている。
船が揺れるたび、私の方に気をつけてるのが、わかってしまったから。
足を止めた私に、サンジは笑顔で首を振った。
くわえたタバコの煙が、ふわりと横に流れる。
「皮、むかないの?」
「これは、皮ごとで大丈夫」
「ふうん」
ほっとして、シンクの横に立った。
洗ったじゃがいもを、大きな鍋に入れていくサンジを、じっと見つめる。
「晩御飯、なにがメイン?」
「塩漬け肉のスープ。じゃがいもは別に茹でて、あとで入れんだ。シンプルだけど、美味ェんだぜ」
「サンジが作るゴハンは、いっつも美味しいよ」
サンジの嬉しそうな顔を見ると、私も嬉しくなる。
手は休めないまま、サンジは視線を僅かに落とし、
「水仙、キレイだな」
「でしょ?ロビンに球根貰って、大事に育てたんだよ」
「でも、河鹿ちゃんは、ホントはおれに会いに来たんだろ?」
そう言って、私の目を覗き込んだサンジは、一瞬ニカッと笑って。
次には、何でもなかったみたいに、視線を手元に戻した。
ホントは、いつだって会える。
なにもなくても会いにくる。
私は笑顔を浮かべたまま、手にしたグラスをカウンターに置き、
「飾りに来ただけ」
「そりゃ、残念」
「最初に見せてあげようかな、とは思ったけど」
空いた手で、ずいぶん短くなったタバコを、サンジの口元から奪い取った。
キッチンの前を走り去っていく、誰かの足音。
甲板に響く、楽しそうな声。
会う理由があると、安心できる。
だから、それを探すのが好き。
2人でいられる理由を、たくさん考えて、いくつも胸にしまっている。
タバコを灰皿に置いて、私はサンジを見上げた。
「それじゃダメ?」
この顔も練習した。
お風呂あがりに、鏡に向かって、何度も。
微笑むサンジの顔が、少し近くなる。
「いや、充分」
「うん」
静かに重なる唇と、流しっぱなしの水の音。
外のはしゃぎ声が途切れ途切れに聞こえる度、躰に僅かな緊張が走る。
「落ち着かねェんだ?河鹿ちゃん」
離した唇は、微笑みの形。
サンジは、最後のじゃがいもを大鍋に放り込むと、蛇口を閉めた。
「やめといた方が、良かったかもな」
「ううん。私、こっそりなの好きだよ」
「あ。『おれが好き』なんじゃねェんだ」
わざとらしく肩を落として、暗い雰囲気を漂わせるサンジの様子がおかしくて。
クスクス笑いながら、言葉をかけようとした瞬間、扉が開く音がした。
上──測量室だ。
気付くと同時に、サンジの足下にしゃがみ込む。
シンクの陰になるように。
びっくりした表情のサンジに、ジェスチャー混じりに『しーっ』と言った時、梯子に足をかける音がした。
段を下りてくる足音が軽いから、きっとナミかロビン。
私は複雑な気持ちで、サンジを見上げた。
「探してた本は、見つかったかい?ロビンちゃん」
「ええ。少し時間がかかったけど、ちゃんと」
「コーヒー入れようか?片手でつまめるオヤツとか」
見上げる先には、サンジの顎のライン。
表情は窺えないのに、デレデレしてるのが判るのは、膨らんだ鼻の穴が見えているから。
笑みを忘れた私の唇が、もやもやした気持ちのままに歪んだ。
「ありがとう。コーヒーだけ、アクアリウムに下ろして貰えるかしら?」
「もちろん、喜んで」
「あら。その水仙、河鹿が持ってきたの?」
隠れなければ良かった。
普通に、笑って話をすれば済んだことなのに。
レディに対してデレデレしてるサンジを、ただじっと見てるのは、寂しい。
頷く首の動きを見ながら、私は床にぺたりと座り込み、膝を抱えた。
「河鹿はどうしたの?」
「あー、いや、ちょっと」
「フフッ。…そういえば、ルフィたちは影踏みを止めて、かくれんぼをはじめるみたい」
カツカツとヒールを鳴らしながら、ロビンは静かにそう語り。
ドアノブを捻る、ガチャリという音のあと、
「ここにも隠れにくるかもしれないわ。気をつけてね」
「うっ。いや、ロビンちゃん」
「コーヒーは、15分後で構わないわ」
クスクス笑いとともに、ロビンがキッチンを出てゆく。
サンジが、ゆっくりと息を吐くのが聞こえてきた。
「まいったな」
その呟きを聞きながら、私も静かに嘆息する。
吐いた息が膝に触れ、一瞬の熱さを残した。
「河鹿ちゃん」
「…なに?」
膝に顎をつけたまま返事をすると、急に目の前にサンジの顔が現れた。
ギョッとした私を見つめる瞳の上で、ぐるぐる眉が心配そうにひそめられる。
私は、慌てて膝に顔を埋めた。
笑わないと──
「河鹿ちゃん?」
「ちょっと待って」
「いいけど、何で?」
膝のすき間から、床にあぐらをかくサンジを見つめ、私は静かに息を吐いた。
「笑うまで待って。今、変な顔だから」
「んなことねェよ」
「変だもん!すごく、可愛くない顔してる」
「河鹿ちゃんは、どんな時でも可愛いけどな」
額に触れたサンジの指に、軽く圧力がかかり。
少し浮き上がった私の顔を、ニッカリとした笑顔が覗き込んだ。
「やっぱり可愛い」
「嘘」
「嘘なんかつかねェよ」
髪を梳くように指を動かしながら、サンジは静かに瞳を閉じた。
「河鹿ちゃんだって、おれの変な顔、いっぱい見てるよな?」
「…さっきみたいに、鼻の下伸びてたり?」
「そう。そういう顔、知ってんだろ」
「だって、そんなの、出会った最初から見てるよ」
髪をゆるく引っ張る指。
開いた瞳が静かにこちらにむけられ、開いた唇からは優しい囁き。
「おれも最初から、河鹿ちゃんの色んな顔を見てた」
「……」
「あの『変顔大会』は、刺激的だったな」
「やだ!それ忘れて!」
思わずガバッと身を起こすと、サンジの掌が肩に触れた。
膝に顔を埋められなくなった私は、表情を作る余裕もなく、ただサンジを見つめる。
まっすぐな眼差しが私を捉え、
「おれは河鹿ちゃんの、笑ってねェ顔も見てェんだ」
「サンジ」
「ヤキモチ焼く顔も、全部可愛いから、見逃せねェ」
照れた私が口を尖らせると、サンジは嬉しそうに笑った。
唇の輪郭をなぞる、サンジの指がくすぐったくて、私も吹き出すように笑う。
「でもサンジも」
「ん?」
「最近、私にはデレデレしたりしないよね。目、ハートになったりも。それ、なんか…微妙」
「んな事ねェけどな」
その時、じゃんけんの掛け声が、ひときわ高く響いてきた。
苦虫を噛み潰したような顔になったサンジが、ゆっくりとため息をつく。
「ロビンちゃん情報によると、あのアホどもが、ここに来るかもしれねェ」
「あ、15分後にはコーヒーなんだよね?」
「…河鹿ちゃんは、こっそりが好きなんだよな?」
親指で私の唇を撫で、サンジが目を細めた。
横座りに座りなおした私は、
「うん。サンジと、こっそりなのが好き」
一瞬ハートになった瞳を、サンジは瞼を伏せて隠した。
そのまま近づいてくるサンジの顔に、私はもう1つ素敵な発見をして。
満ち足りた気持ちで微笑み、目を閉じる。
鼻の穴、ちゃんと膨らんでた。
《FIN》
2009.01.21
Flowers ー narcissus ー
Written by Moco
(宮叉 乃子)