ギンモクセイ
「平気か?」
「あ、うん」
身動ぎすると、肘が少し痛んだ。
ベンチにぶつけたかもしれない。
「ちょっと痛いけど、大したことない。…ゾロは?」
「なんともねェ」
「ごめんね」
ゾロは何も答えず、床に座り込んだまま片方の膝を立て。
首にかけていたタオルを取ると、私の顔を拭った。
「ちょっ…擦ったら、ファンデが落ちるから!」
「たいして変わんねェだろ」
「変わるよ!!ゾロ、酷い」
軽く腕を叩くと、小さく笑ったゾロが、濡れたベンチにタオルを乗せた。
布の動きが空気をかき混ぜ、小さな風を起こす。
「あの花、匂いが強ェな」
「うん。でも、いい香りだよね」
「記憶に残りそうな匂いだな」
ゾロの視線を追うようにして、私もギンモクセイを見上げた。
「記憶?」
「通るたび、転んだのを思いだしそうじゃねェか?」
ニヤリと笑ったゾロの額を叩くと、ペチりといい音がした。
口を尖らせた私を見て、ゾロが吹き出す。
「腹立つー!」
「おい、危ねェぞ」
「痛っ」
私の手を避けたゾロの方へ、身を乗りだそうとついた手。
肘に走った痛みに、私は顔をしかめた。
伸びてきた大きな手が、服の上から肘に触れる。
「河鹿」
「あ、平気。一瞬痛かっただけ」
「チョッパーは出たんだったな」
困ったように、ゾロが頭を掻く。
あれ、何か──。
肘に触れたままの手。
片膝を立てた、ゾロの足。
前傾の私が見上げるすぐ先の、眉間を寄せた顔。
窓から入り込む日射しが、ゾロを縁取り。
辺りを包む、ギンモクセイの甘ったるい香り。
急に、躰が熱くなった。
「どうした?」
「いや、あの」
怪訝そうな瞳から、目をそらす。
本当になんだろう、急に。
ルフィたちのいないサニー号の静けさを、妙に意識しながら。
この距離の危うさに、どぎまぎするばかり。
「河鹿、お前…」
「あの…」
誤魔化そうと向けた瞳の先で、ゾロの動きが止まり、絡めてしまった視線が揺らいだ。
どうしよう。
伝染させてしまった。
何か言葉を発しようと、ゾロの唇が動き。
視界の端でそれを捉えた私の躰は、どうしてか勝手に前へと進んで。
つられたように、ゾロも動いた。
「…ごめん」
「…悪ィ」
一瞬触れあった唇を、あわてて離したあと、口をついたのは謝罪の言葉。
笑ったら、冗談に出来たかもしれないのに。
お互いを探りあうように、交わした眼差し。
「……」
「……」
謝ったのは──嫌じゃなかったから。
だけど、ゾロはどうなんだろう。
考えながら、じっと瞳を見つめているうちに。
呼びあうように、もう一度出会う唇。
すぐに離して、また、かすめるように触れ合ったあと。
僅かな距離を挟んだまま、互いの様子を探った。
静かな部屋に、息づかいだけが響き。
西日の眩しさを言い訳にして、私は目を閉じる。
ギンモクセイの香りに満たされた空気を、深く吸い込みながら。
私は、唇の距離を詰めた。
触れて離れ、またぶつかり。
開いた唇から入り込む、熱い舌と甘い香り。
勝手に動いた腕が、ゾロの首に絡まり。
不安定な私の躰を、逞しい腕が引き寄せた。
瞼の向こうの、午後の日差し。
香りを含んだ空気が入り込めないほど、躰を寄せあった私たちは。
唇を離し、見つめあった。
「私たち」
溢れおちた言葉に、互いの視線が揺れる。
こんなに戸惑うゾロの瞳は、初めて見た。
「何やってんだ……」
ゾロの口から漏れる、絞り出すような言葉と嘆息。
その困惑の色濃さに、胸が締め付けられる。
私の耳を指で弄びながら、戸惑っているなんて酷い。
だけど、私も混乱している。
固い髪を撫で、その感触を掌に味わいながら。
こうしているのは何故なのか、頭の片隅でずっと考えている。
浅い呼吸の幾度目か、ふと新鮮に香ったギンモクセイは。
瞬く間に躰中に広がり、その芳しさで私を酔わせた。
もういい。
なにも考えなくても。
今、ここにあるもの。
それだけでいい。
惹き付けられるままに交わす、幾度目かの口づけで。
戸惑いの奥にある何かを、掴めそうに感じた瞬間。
急に甲板が騒がしくなった。
バタバタという足音と、ドアを開く音が遠くに聞こえ、
「腹減ったー!サンジー、おやつー!!あれ、いねェのか?」
続くルフィの元気な声に、一瞬口づけをほどいた。
だけど、唇にほんの少しの距離を残し、声を遠く聞きながら、
「戻ってねェのか?…おーい、留守番だれだー!?」
私たちはまだ、甘い香りに支配されている。
ゾロの舌が私の唇に触れ、輪郭をなぞった。
背中をびりびりと走る痺れ。
その舌を縁取るように舐めていくと、少し乾いた唇にたどり着く。
唇と、濡れた口内の境目を舌先でたどると、ゾロは僅かに目を細めた。
絡まる舌が、私を引き込もうと動き。
私は深く息を吸い、甘い香りを躰中に満たしながら、誘われるままに唇の距離をつめていく。
深く、溺れたい。
けれど、
「上かー?」
その声に躰が跳ねた。
次の瞬間、互いを押しやるように躰を離す。
「おーい、いるかー?」
さっきより近くに聞こえてくる、ルフィの声。
勢いよくハシゴを上ってくる音に、私たちは弾かれるように立ち上がった。
見つめた瞳にまず、困惑がよみがえり。
次に込み上げてくる不安と疑問、そして罪悪感。
「いねーのかー?」
「…いるよ!なに、ルフィ?」
返事と同時にドアへと急ぐ。
踵を返す瞬間、眉間に深い皺を寄せたゾロが、小さく息を吐くのを見た。
そして口元を手早く拭い、ドアノブに手をかけた時。
浴室へ続くハシゴを上る音を、背中に聞く。
「どうしたの、ルフィ…」
胸の鼓動を沈めるべく、深く息を吸いながらドアを開くと、目の前にルフィがいた。
いつもと変わらない、麦わら帽子に手をかける姿に、罪悪感が深くなる。
「河鹿、サンジまだか?」
「…まだみたい」
腹減ったーとぼやくルフィの唇を見ていると、針を刺されたように心が痛んだ。
あまりに何も感じないから。
躰の奥からこみ上げてくる暗い高ぶりに、思わず握りしめる拳。
違う。
何も感じなくていいんだ、仲間なんだから。
開いたドアから入りこんだ風が、図書室の空気を動かし。
流れる甘い香りに、さっきの唇や指、眼差しが強く思い出されて心が乱れる。
どうして、あんな事をしてしまったんだろう。
「なんかいい匂いすんな!」
図書室に顔だけ差し入れて、深く息を吸いながら笑ったルフィは。
上から聞こえてきた、ざぶざぶと激しく顔を洗う音に、不思議そうに首を傾げた。
「他にも誰か戻ってんのか?」
「さあ…。あのさ、花飾ったんだよね!香り、強すぎるかな?」
「んやー。でも腹減るなー、この匂い。甘いもんが食いてェ」
向けられる笑顔が、無邪気すぎて苦しい。
ルフィと話しているのに。
背中の方ばかり気になる。
「何かついてるか?」
ぼうっと見つめていると、ルフィがごしごしと顔をこすった。
子供のような仕草に吹き出しながら、私は一歩踏み出す。
「袋のお菓子なら少しあるよ。食べる?」
「いいのか!」
顔を輝かせたルフィを急き立てるように、私は外へ出た。
これ以上図書室にいたら、すべてを台無しにしてしまう気がする。
「いいよ。でも、私もちょっとは食べるからね」
「おう!早く行こう、河鹿」
このまま、何もなかったことにしよう。
短い夢を見たことにして。
「うん、行こう」
ウキウキとはしゃぐルフィを見ながら、後ろ手にドアを閉めると、洩れ出したギンモクセイの微かな香り。
──ゾロ。
やっぱり、狂おしいほど心が揺れた。