──波の音が聴きたい。
ずっと海の側の家に住んでいたから聞きあきているはずなのに。今はこんなにもあの音が恋しい。
今は、海から離れた山の中だ。
買い出しの帰り道、激しい吹雪を避けようと洞穴に逃げ込んだまではよかったけれど、集めてきた木の枝は湿気ていて火をつける事が出来なかった。
岩の上で横になったまま薄く目をあけると、積み上げた枝の向こうに洞穴の入り口が見える。
吹雪はやむ気配がない。こんな日に動けるのは、最近噂の青鼻の化物かラパーンくらいだろう。
誰も私を探しにはこられない。自分でなんとかしたくても、この冷えきった躰を動かす事はもう出来そうになかった。
瞼が重い。逆らうことはできず、私は目を閉じる。
そして、そのうちふっと意識が遠くなった。
《夢の中の潮騒》
──小さな音がする、波?
閉じた瞼の向こうでちらちらと光が揺れ、お肉が焼ける美味しそうな匂いが漂ってきた。
もう朝なんだ、起きなきゃ。
でも、寝返りを打とうとした躰の下には硬い岩。
違う、家じゃない。
私ははっと目を開く。
まず視界に飛び込んで来たのは炎。
火がつかないほど湿気っていた薪が、ぱちぱちという音を立てながら燃えている。
その炎の向こう側に見えたのは、洞穴の入り口ではなく人影だった。
「よう」
私の視線に気づいたのか、その人影は軽く片手を上げて声をかけてくる。
反対の手には、私が仕入れた骨付き肉の塊が握られていた。よく見ると、焚火の側で何本も肉が炙られている。
「すまねぇ。悪ィとは思ったんだが、腹が減って遭難しそうだったんで勝手に食わせて貰った」
その言い方があまりに無邪気だったので、私はつい笑い出しそうになった。
だけど、唇は凍りついたみたいに固まって動かない。
「……どうぞ、好きなだけ」
ようやくかすれた声を絞り出した。
今の私には、仕入れた食材の山を持って帰る事なんて出来ない。
それにしても、普通の人がこの激しい吹雪の中、山の中を通りかかるものだろうか。
そばかすが散る健康そうな膚、勢いよく食べ物を頬張る口。悪人には見えないけど、この小さな国で見かけた事がある顔でもない。
私の視線を感じたのか、男は肉をほおばりながら視線をこちらに向けた。
「名前を聞いてなかった」
「私?……真鶸」
「そうか。名前も知らないままご馳走になってた。ありがとう、真鶸」
ぺこりと頭を下げる姿も無邪気だ。やっぱり悪人には見えない。
急に強い風が吹き込んで来た。
煽られた焚き火の炎は儚く消え、あたりは暗闇に包まれた。
「雪をかぶっちまった」
言葉の後に立ち上がる気配。
外の方が明るいために、洞穴の入り口に男のシルエットが浮かびあがる。
羽織っているマントをばさばさと揺らすと、雪らしき影がはらはらと地面に落ちた。
「真鶸、そっちにも雪が──」
こっちを向いて、男はふっと黙った。
燻る焚き火をまたいでこちらにくると、横たわったまま動けない私の側にしゃがみこむ。
生き生きとした瞳は暗闇の中でも強い光を放ち、私はただそれに見惚れた。
大きな掌が私の二の腕を掴む。
「お前、弱ってるな?肉……はムリか。パンなら食えるか?」
「……いらな……寒……」
唇がさっきよりも動かしづらくなっていた。視界の端にまつげに乗る雪が目に入る。
焦点をずらすと、その結晶の形までありありと見えた。
いつもなら気にもとめず何気なく払い落としている──そう思った瞬間、怖くて心の底まで凍っていくような気がした。
「寒い?ああ。普通は寒いのか」
首を傾げ、男は不思議な事を言った。
そして次の瞬間、私を抱きあげてマントの中に包み込む。
男が片腕を焚き木の方へと伸ばした。暫くするとぱちぱちという音が聞こえ、炎が男の顔を明るく照らしだす。
「今、マッチ持ってた?」
「いや」
彼は微笑みながら、伸ばしていた手を私の目の前に翳した。その指先にふっと炎が立ち上り、私は驚きのあまり息をのんだ。
炎をおさめた指が私のまつげに触れる。雪の結晶はあっという間に水に戻った。
そのまま頬を撫でた彼の指は、驚くほどに熱い。
全身に次第に熱が戻る感覚。
凍りつきそうに強ばっていた躰がみるみるうちにほどけてゆく。
「……あなた、何者?」
そう口にした瞬間、がたがたと躰が震えだした──。
ついさっきまで何も感じなかったのに、今は寒くて寒くてたまらなかった。
けれど、それ以上に彼の躰は温かかった。
男は私を強く抱き締め、安心させるように肩を2度叩いた。
「大丈夫だ、真鶸。お前は生きてる」
言いながら彼は焚火へと手を伸ばした。前のめりになった男の膝から滑り落ちる事を恐れ、私は震える腕で必死に逞しい胸板にすがり付く。
だけどそれは余計な心配だった。片腕の支えだけでも、私の躰はぐらつきもしない。
「おれは腹ペコで、お前は凍えそうだった。お互い丁度いいとこで会ったな」
起き直った男は焚き火で炙っていた肉をかじり、満足そうな表情を浮かべる。
「でも食い物の礼には足りてないな。吹雪がやんだら送っていく。家はどこだ?」
「ロベール……」
さっきよりは滑らかに動くようになった口で、私は住み慣れた街の名を口にする。
「おれもその街に用事がある。真鶸──」
丁度いいのが続くな、と笑ったその顔は、私を心の底から安心させた。
ザ……ザザ……。
懐かしい音が聴こえる、また夢を見ているのだろうか。
潮騒、カモメの声、人々のざわめき──ずいぶんリアルな響きだ。
私はベッドから飛び起きた。
夢じゃない、本当に家だ。
スリッパを履くのももどかしく、転げ落ちるようにして階段を下りた。
足音を聞き付けた姉がキッチンから顔をだす。
「真鶸?起きたの、良かった!遭難してたとこを、旅の人が連れてきてくれたのよ」
「その人は?」
「あなたを渡したら、そのまま広場の方に向かっていったわ。引き留めたんだけど」
「いつ!」
「2時間くらい前かな?ちょっ、真鶸、まだ寝てないと!」
私はスリッパのまま外に飛び出し、通りを見渡した。
今日は珍しく雪が降ってない。
広場に向かって駆け出そうとすると、足元がふらついて壁にぶつかってしまった。屋根に積もっていた雪がぱらぱらと落ちてくる。
手の甲に落ちた雪の結晶は、払う前から溶けて無くなってしまった。
『大丈夫だ、真鶸。お前は生きてる』
彼の声が耳に蘇ると、熱い感情が胸に沸き上がる。潮が満ちるみたいに。
懐かしい潮騒に背中を押されるように、私は壁に手をつきながら歩き出した。
私はまだ、お礼も言ってない。
その時、広場の方から大声が聞こえてきた。
「捕まえてくれ、食い逃げ野郎だ!!!」
彼だ、反射的にそう思った。
ただの勘だけれど、絶対間違いない。
間違えたくない。
懸命に足を動かしていると、マントを翻しながらものすごい速度でこちらに向かってくる人影が目に入る。
「待って!」
みるみる近づいてくるその人の前に、転がるようにして立ちはだかった。
立ち止まった顔に浮かんだ人懐っこい笑顔を見た途端、込み上げる胸の熱さで全身が溶けてしまいそうな気持ちになる。
「おっ、真鶸。もう歩いて平気か?」
「ねぇ、名前教えて!」
真っ先にお礼を言うつもりだったのに、私の口から出たのはそんな言葉だった。
男は頭をかきながら、後方を僅かに振り返る。
「おっと、言ってなかったか?ダメだな。すぐ忘れちまう」
こちらに向きなおり、男はぺこりと頭を下げた。
「おれはエースだ。あの時は助かった、真鶸。ありがとう」
「私、何もしてない。助けてくれたのエースの方じゃない!」
感情の高ぶるまま、私はエースに抱きついた。
伝わってくる温かさを感じながら、伝えるべき言葉をようやく口にする。
「エース。私の方こそありがとう」
潮騒はやむことなく続いている。
15.05.25
17.12.14 up
Written by 宮叉 乃子