数日前の昼間と同じように、夜の街も埃っぽくけぶっている。
店を出た翡翠が短い階段を跳ねるように下り、ドアを押さえていたサンジに笑顔を向けた。
「ありがと、サンジ」
柔らかい月の光に、彼女の少し潤んだ瞳がきらめく。
上気した頬に手を添える仕草が、そこはかとなく艶かしい。
階段を下り、サンジは翡翠に笑いかけた。
「こっちこそ、ごちそうさま。翡翠ちゃん」
「美味しかったねー、お酒」
「外に出てくると、夢から覚めたような気がするな」
「なにそれー。サンジ、詩人」
両手で口元を押さえ、笑い転げる翡翠を見ながら、サンジはタバコの箱を取り出した。
店内の楽しげな雰囲気は、閉じたドア越しにも伝わってくる。
さっきまで、彼らもそこにいた。
半分ほど埋まったテーブル。その隅では、ロウソクの光が揺れていた。
様々な種類の酒が、彼らの舌を滑らかにさせた。
彼女が知らない彼らの冒険、彼が始めて知るかつての彼女の物語、たくさんの夢と希望。
語り尽くせないままに夜は更け、そして今はここにいる。
サンジがタバコに火をつけかけた時、翡翠の体がぐらりと傾いだ。
慌ててその体を抱きとめると、彼の手からマッチ箱が滑り落ち、地面に中身を撒き散らした。
「翡翠ちゃん」
「あー、笑いすぎちゃった。サンジ、おっかしーんだもん」
彼の腕の中で、翡翠はまだ笑い続けている。
火のついていないタバコをくわえたまま、サンジは心配そうに語りかけた。
「少し休んでいこうか、翡翠ちゃん。酔いを醒ましたほうが良さそうだ」
「へーきへーき。今のは、サンジが面白すぎるせいだよ」
ようやく笑いやむと、翡翠は地面をまじまじと見つめた。
「あ。マッチだいなしー」
「そんなのいいんだ、翡翠ちゃんの方が…」
「お店にあったの貰ってくる」
「いや」
急にしゃっきりと身を起こし、店へ戻ろうとした翡翠の手を掴んで、サンジは優しく言い聞かせた。
「吸わねェから大丈夫」
休むにしても船に戻るにしても、翡翠のこの様子では、怖くてタバコに火をつける事など彼には出来ない。
サンジが、くわえていたタバコを片手で器用にポケットの中の箱に戻すと、翡翠は目を丸くした。
「吸わないの?うそー。サンジ、もしかしてニセモノ?」
そして、次にはまた可笑しそうに笑い出す。
「ニセモノだってー。私も変」
「やっぱり、休んだほうが良くねェか?」
「いいのー!戻ろう!」
彼がさっき掴んだ手をそのままに、翡翠は先に立って歩き出した。
サンジを引っ張ろうとする細い腕が、少しきゅうくつそうに捻れている。
彼は慌てて手を離し、急いで数歩進んでからさりげなく手を繋ぎなおした。
握りしめた彼女の手は、ひんやりとしていて小さい。
何かを思いだしているのか、翡翠は楽しそうにクスクスと笑っている。
深夜の町並み。僅かに点る街灯が、港への道を照らしている。
町中が復興作業に疲弊しているためか、辺りには人影ひとつ見えない。
いつしか翡翠も静かになり、2つの足音だけが夜に響いている。
サンジがちらりと視線を送ると、翡翠は右手の甲を左の頬に当て、幾度かまばたきをした。
理知の輝きを取り戻しつつある瞳が、ゆっくりと彼の方を向く。
「私も夢から醒めたみたい」
翡翠が急に足を止めた。
彼女より1歩踏み出したところでサンジも慌てて立ち止まり、躰をひねるようにして振り返る。
右手で口元を覆う翡翠の姿に、彼は心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。
「翡翠ちゃん、やっぱり休もう。水貰ってくるから、少しここで──」
「…てた」
「ん?」
「私、プレゼント忘れてた。ごめん、サンジ」
口元から手を離し、翡翠は小声ながらもはっきりと言葉を発した。
そのしっかりとした口調に安堵の息をつきながら、彼は繋いだままの手に力を込める。
「翡翠ちゃんといて楽しかったから、おれはもう充分嬉しいんだ」
心の底からそう感じていることを伝えようと、サンジは満面の笑みを浮かべた。
翡翠がつられたように笑い、彼は満ち足りた気持ちになる。
しかしそれも、彼女が繋いでいた手をほどいてしまうまでの短い間だった。
掌が寂しくなると、彼の胸の内も頼りなくしぼんでしまう。
翡翠の唇が僅かに動いた。
言葉を聞こうとして、僅かに腰を落としたサンジの人差し指に、彼女のひんやりした手が触れる。
指を握る小さな掌が、彼の胸を今度は熱くした。
「サンジ」
「うん」
「お誕生日おめでとう」
礼をいおうとした彼の唇に、柔らかいものがぶつかる。
「タバコ吸ってなくて良かった」
離れた唇を薄く開いて、翡翠が呟いた。
新たな熱を帯びた瞳が、彼に向けられている。
「翡翠ちゃん」
「なんか帰るの寂しー」
唇を尖らせる翡翠の表情は無邪気だ。
ただ彼の指を一瞬だけ強く握りしめた動きが、なんともいえず愛らしい。
はやる心を抑えながら、サンジは精一杯穏やかな笑顔を作った。
「また行こう」
「…うん」
そう頷いたあと、翡翠がちらちらとサンジを見ては目をそらす。その眼差しに浮かぶ焦れに、彼の気持ちは掻き立てられてゆく。
「もー!そうだけど、違うよー」
痺れを切らしたように、サンジの腕に翡翠の額が押し付けられた。
小さく首を横に振る動きが、直接躰に響いてくる。
「知ってる。翡翠ちゃん、今日はいつにも増して可愛いな」
「サンジのバカ」
顔を上げた翡翠が、頬を桜色に染めながら呟く。
ニヤニヤとした笑いを隠しきれないまま、次は彼のほうから口付けた。
触れて離した唇を翡翠の耳元に寄せ、素早く囁く。
「翡翠ちゃん、また夢見ねェか」
「今から?」
「そう」
「一緒に?」
「今から一緒に、新しい夢」
サンジは翡翠の肩に片手を置き、瞳を覗き込んだ。
上目遣いでじっと彼を見つめたあと、翡翠は恥ずかしそうに視線をそらした。
「…見る」
そう言ったあと、サンジに向けられた翡翠の笑顔は、天使よりも可憐で──。
店は、笑い声とざわめきに満ちている。
「なに考えてるのー?」
サンジの前に、貰ってきたケーキを置きながらそう言うと、デュフデュフという笑い声がピタリとやんだ。
「そりゃもちろん、翡翠ちゃんのことしかねェよ」
「ふーん」
鼻の下を伸ばしただらしない表情から、ほんの数秒で普通の顔になれるところには感心してしまう。
「でも、鼻わりばしのある風景でそんなこと言われても」
「いいぞ、麦わらさーん」
「タヌキももっとやれー」
私が指差した先で、やんやの喝采を浴びているのは、鼻わりばし姿で踊るルフィとチョッパー。
振り返って、しばらくその様子を眺めていたサンジは、カウンターに向き直るとがっくりと肩を落とした。
「クソッ、なんでバレたんだろうな」
「…さあ」
夕飯前に、つい口を滑らしてしまったことは内緒だ。
怒らないのは判っている。
けれど、あんなに2人で出かけたがっていたのを思い出すと、後ろめたい。
サンジが、苦々しい表情のままタバコを取り出す。
私は隣のスツールに腰をおろしながら、慰めの言葉を口にした。
「でも、それでナミとロビンもここに来てるんだから良かったよね」
「ナミさんとロビンちゃんと翡翠ちゃんだけなら、この店は天国だ」
サンジが再び振り返り、店内を見渡した。
フランキーの鮮やかな改造で、両隣の店舗と繋ぎ合わされた広いスペースは、島の人々──なぜかほとんどが男の人ばかり──で溢れている。
「ヨホホホ、45度!」
「…そこで、ウソップ様の8000人の部下たちが…」
ブルックのパフォーマンスや、ウソップの話が山場に差し掛かるたび店内がどっと沸く。
「こりゃ美味ェな、辛口だ」
「次の酒はねェのか?」
「スゲー飲みっぷりだ!」
「おい、樽で持ってこい!」
ゾロとフランキーの前のテーブルには、隙間なく空いた酒瓶が並んでいる。
サンジは、深々とため息をついて首を横に振った。
そして、店の名の入ったブックマッチから1本を千切り取ると、
「今のこの店は、ただの地上だ」
いまいましそうにそう呟いて、タバコに火をつけた。
「なにそれー。サンジ、詩人」
私が思わず吹きだすと、なぜかサンジは驚いた顔になった。
「どうかした?」
「…いや」
灰皿を手元に引き寄せながら、こちらをじっと見つめる瞳。
落ち着かない気分で、私は視線をそらした。
視界の隅で何かが動く。
「さっきと同じものを2つ」
「あ、ロビン」
見上げた先で、彫りの深い美しい顔が微笑みを浮かべている。
「どうしたの?翡翠」
「べつにー」
少しほっとして、ちらりと隣の席の様子を窺った。
サンジはウキウキした様子で、ロビンに笑顔を向けている。
「ロビンちゃん、賭けはどんな感じだい?」
「そうね。ナミちゃんの調子がいいから」
店の一角へ視線を向けた。
こちらからは、ソファにかけたナミのオレンジの髪しか見えない。
「チクショー!また負けだ!」
男の嘆き声とともに、カードが宙を舞う。
「ちょっと!投げないでよ、すぐ次に使うんだから」
ナミが、賭け金を集めるためにテーブルに身を乗り出した。
ロビンに視線を戻し、私はスツールを指差しながら、
「ロビンたちも来たらいいのに」
「あら、元々は2人で来るはずだったんじゃ?──ありがとう」
ロビンがクスクスと笑いながら、新しい飲み物を受け取る。
照れくささに、私は首を激しく横に振った。
「もー!そうだけど、違うよー」
その瞬間、サンジが急にゴホゴホとむせはじめた。
「サンジ、大丈夫?どーしたの」
「さっきから微妙に…」
溶けた氷で薄くなったお酒を飲み干すと、サンジは戸惑ったように頭をかいた。
不思議そうな顔でこちらを見つめられても、私にはさっぱり意味がわからない。
お互い困り顔で見つめあっていると、頭上で小さな笑い声がした。
「ごゆっくり」
ヒールを鳴らしながら、ロビンは向こうへ行ってしまった。
ロビンを見送ったサンジが、私に視線を戻す。
微妙な空気を誤魔化すように、私はケーキを指差した。
「せっかくだからケーキ食べよー。誕生日…あ」
本来の目的を忘れていた。
その上もう1つ忘れていたものに気づいて、私は顔の前で手をあわせた。
「私、プレゼント忘れてた。ごめん、サンジ」
サンジはまた不思議そうな顔。
でも次には、なぜかウキウキと灰皿にタバコの先を押し付けた。
「おれは翡翠ちゃんといて楽しかったから──」
「もうまとめて来年でいいよね?」
同時に喋り出して、同時に黙りこむ。
がっくりと項垂れたサンジの顔を、慌てて覗き込み、
「…プレゼントいるんだった?」
「そうじゃねェけど。微妙にかぶってるのに、うまくいかねェな」
「何と?」
尋ねた事を、すぐに後悔した。
タバコをくわえたサンジの口元がニヤニヤと緩み始め、そのうちデュフデュフと笑い声をもらしはじめる。
「…もういーや。なんか想像ついた」
私は呆れながら、ケーキの1つをサンジの方へおしやった。
ブルックのバイオリンが、楽しげな曲を奏ではじめる。
お酒を飲みながら、少しの間演奏に耳を傾けていると、
「翡翠ちゃん」
「なにー?」
カウンターに手枕をしたサンジが、私を見つめていた。
見上げられる事の新鮮さに、少しドキドキしてしまう。
「また、一緒に来よう」
「ん?うん」
私の答えにサンジは躰を起こし、満足そうにケーキを食べ始める。
子供みたいな可愛らしさに、吹き出しながら尋ねてみた。
「もしかして、かぶってた?」
「どうかな。すげェ嬉しいから、もう、おれはそれでいいんだ」
サンジは最高にいい笑顔。
その表情に、思わず目を奪われながら、私は、言いそびれていた言葉をようやく口にする。
「サンジ」
「ん?」
「お誕生日おめでとう」
《The End》
2009.12.31(多分)
(改稿:20150509)
Midnight Daydream
Written by Moco
(宮叉 乃子)※前サイトで期間限定公開だったもの
当時1Pに押し込んだため、長すぎて期日が記載できなかったらしく、正確なUP日付が不明です