S×S【1】 | ナノ
Midnight Daydream

数日前の昼間と同じように、夜の街も埃っぽくけぶっている。

店を出た翡翠が短い階段を跳ねるように下り、ドアを押さえていたサンジに笑顔を向けた。

「ありがと、サンジ」

柔らかい月の光に、彼女の少し潤んだ瞳がきらめく。
上気した頬に手を添える仕草が、そこはかとなく艶かしい。

階段を下り、サンジは翡翠に笑いかけた。

「こっちこそ、ごちそうさま。翡翠ちゃん」
「美味しかったねー、お酒」
「外に出てくると、夢から覚めたような気がするな」
「なにそれー。サンジ、詩人」

両手で口元を押さえ、笑い転げる翡翠を見ながら、サンジはタバコの箱を取り出した。

店内の楽しげな雰囲気は、閉じたドア越しにも伝わってくる。
さっきまで、彼らもそこにいた。

半分ほど埋まったテーブル。その隅では、ロウソクの光が揺れていた。

様々な種類の酒が、彼らの舌を滑らかにさせた。
彼女が知らない彼らの冒険、彼が始めて知るかつての彼女の物語、たくさんの夢と希望。

語り尽くせないままに夜は更け、そして今はここにいる。

サンジがタバコに火をつけかけた時、翡翠の体がぐらりと傾いだ。
慌ててその体を抱きとめると、彼の手からマッチ箱が滑り落ち、地面に中身を撒き散らした。

「翡翠ちゃん」
「あー、笑いすぎちゃった。サンジ、おっかしーんだもん」

彼の腕の中で、翡翠はまだ笑い続けている。
火のついていないタバコをくわえたまま、サンジは心配そうに語りかけた。

「少し休んでいこうか、翡翠ちゃん。酔いを醒ましたほうが良さそうだ」
「へーきへーき。今のは、サンジが面白すぎるせいだよ」

ようやく笑いやむと、翡翠は地面をまじまじと見つめた。

「あ。マッチだいなしー」
「そんなのいいんだ、翡翠ちゃんの方が…」
「お店にあったの貰ってくる」
「いや」

急にしゃっきりと身を起こし、店へ戻ろうとした翡翠の手を掴んで、サンジは優しく言い聞かせた。

「吸わねェから大丈夫」

休むにしても船に戻るにしても、翡翠のこの様子では、怖くてタバコに火をつける事など彼には出来ない。
サンジが、くわえていたタバコを片手で器用にポケットの中の箱に戻すと、翡翠は目を丸くした。

「吸わないの?うそー。サンジ、もしかしてニセモノ?」

そして、次にはまた可笑しそうに笑い出す。

「ニセモノだってー。私も変」
「やっぱり、休んだほうが良くねェか?」
「いいのー!戻ろう!」

彼がさっき掴んだ手をそのままに、翡翠は先に立って歩き出した。
サンジを引っ張ろうとする細い腕が、少しきゅうくつそうに捻れている。

彼は慌てて手を離し、急いで数歩進んでからさりげなく手を繋ぎなおした。
握りしめた彼女の手は、ひんやりとしていて小さい。

何かを思いだしているのか、翡翠は楽しそうにクスクスと笑っている。

深夜の町並み。僅かに点る街灯が、港への道を照らしている。
町中が復興作業に疲弊しているためか、辺りには人影ひとつ見えない。

いつしか翡翠も静かになり、2つの足音だけが夜に響いている。

サンジがちらりと視線を送ると、翡翠は右手の甲を左の頬に当て、幾度かまばたきをした。
理知の輝きを取り戻しつつある瞳が、ゆっくりと彼の方を向く。

「私も夢から醒めたみたい」

翡翠が急に足を止めた。

彼女より1歩踏み出したところでサンジも慌てて立ち止まり、躰をひねるようにして振り返る。
右手で口元を覆う翡翠の姿に、彼は心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。

「翡翠ちゃん、やっぱり休もう。水貰ってくるから、少しここで──」
「…てた」
「ん?」
「私、プレゼント忘れてた。ごめん、サンジ」

口元から手を離し、翡翠は小声ながらもはっきりと言葉を発した。
そのしっかりとした口調に安堵の息をつきながら、彼は繋いだままの手に力を込める。

「翡翠ちゃんといて楽しかったから、おれはもう充分嬉しいんだ」

心の底からそう感じていることを伝えようと、サンジは満面の笑みを浮かべた。

翡翠がつられたように笑い、彼は満ち足りた気持ちになる。
しかしそれも、彼女が繋いでいた手をほどいてしまうまでの短い間だった。

掌が寂しくなると、彼の胸の内も頼りなくしぼんでしまう。

翡翠の唇が僅かに動いた。
言葉を聞こうとして、僅かに腰を落としたサンジの人差し指に、彼女のひんやりした手が触れる。

指を握る小さな掌が、彼の胸を今度は熱くした。

「サンジ」
「うん」
「お誕生日おめでとう」

礼をいおうとした彼の唇に、柔らかいものがぶつかる。

「タバコ吸ってなくて良かった」

離れた唇を薄く開いて、翡翠が呟いた。
新たな熱を帯びた瞳が、彼に向けられている。

「翡翠ちゃん」
「なんか帰るの寂しー」

唇を尖らせる翡翠の表情は無邪気だ。
ただ彼の指を一瞬だけ強く握りしめた動きが、なんともいえず愛らしい。

はやる心を抑えながら、サンジは精一杯穏やかな笑顔を作った。

「また行こう」
「…うん」

そう頷いたあと、翡翠がちらちらとサンジを見ては目をそらす。その眼差しに浮かぶ焦れに、彼の気持ちは掻き立てられてゆく。

「もー!そうだけど、違うよー」

痺れを切らしたように、サンジの腕に翡翠の額が押し付けられた。
小さく首を横に振る動きが、直接躰に響いてくる。

「知ってる。翡翠ちゃん、今日はいつにも増して可愛いな」
「サンジのバカ」

顔を上げた翡翠が、頬を桜色に染めながら呟く。
ニヤニヤとした笑いを隠しきれないまま、次は彼のほうから口付けた。

触れて離した唇を翡翠の耳元に寄せ、素早く囁く。

「翡翠ちゃん、また夢見ねェか」
「今から?」
「そう」
「一緒に?」
「今から一緒に、新しい夢」

サンジは翡翠の肩に片手を置き、瞳を覗き込んだ。
上目遣いでじっと彼を見つめたあと、翡翠は恥ずかしそうに視線をそらした。

「…見る」

そう言ったあと、サンジに向けられた翡翠の笑顔は、天使よりも可憐で──。




店は、笑い声とざわめきに満ちている。

「なに考えてるのー?」

サンジの前に、貰ってきたケーキを置きながらそう言うと、デュフデュフという笑い声がピタリとやんだ。

「そりゃもちろん、翡翠ちゃんのことしかねェよ」
「ふーん」

鼻の下を伸ばしただらしない表情から、ほんの数秒で普通の顔になれるところには感心してしまう。

「でも、鼻わりばしのある風景でそんなこと言われても」
「いいぞ、麦わらさーん」
「タヌキももっとやれー」

私が指差した先で、やんやの喝采を浴びているのは、鼻わりばし姿で踊るルフィとチョッパー。
振り返って、しばらくその様子を眺めていたサンジは、カウンターに向き直るとがっくりと肩を落とした。

「クソッ、なんでバレたんだろうな」
「…さあ」

夕飯前に、つい口を滑らしてしまったことは内緒だ。
怒らないのは判っている。
けれど、あんなに2人で出かけたがっていたのを思い出すと、後ろめたい。

サンジが、苦々しい表情のままタバコを取り出す。
私は隣のスツールに腰をおろしながら、慰めの言葉を口にした。

「でも、それでナミとロビンもここに来てるんだから良かったよね」
「ナミさんとロビンちゃんと翡翠ちゃんだけなら、この店は天国だ」

サンジが再び振り返り、店内を見渡した。

フランキーの鮮やかな改造で、両隣の店舗と繋ぎ合わされた広いスペースは、島の人々──なぜかほとんどが男の人ばかり──で溢れている。

「ヨホホホ、45度!」
「…そこで、ウソップ様の8000人の部下たちが…」

ブルックのパフォーマンスや、ウソップの話が山場に差し掛かるたび店内がどっと沸く。

「こりゃ美味ェな、辛口だ」
「次の酒はねェのか?」
「スゲー飲みっぷりだ!」
「おい、樽で持ってこい!」

ゾロとフランキーの前のテーブルには、隙間なく空いた酒瓶が並んでいる。

サンジは、深々とため息をついて首を横に振った。
そして、店の名の入ったブックマッチから1本を千切り取ると、

「今のこの店は、ただの地上だ」

いまいましそうにそう呟いて、タバコに火をつけた。

「なにそれー。サンジ、詩人」

私が思わず吹きだすと、なぜかサンジは驚いた顔になった。

「どうかした?」
「…いや」

灰皿を手元に引き寄せながら、こちらをじっと見つめる瞳。
落ち着かない気分で、私は視線をそらした。

視界の隅で何かが動く。

「さっきと同じものを2つ」
「あ、ロビン」

見上げた先で、彫りの深い美しい顔が微笑みを浮かべている。

「どうしたの?翡翠」
「べつにー」

少しほっとして、ちらりと隣の席の様子を窺った。
サンジはウキウキした様子で、ロビンに笑顔を向けている。

「ロビンちゃん、賭けはどんな感じだい?」
「そうね。ナミちゃんの調子がいいから」

店の一角へ視線を向けた。
こちらからは、ソファにかけたナミのオレンジの髪しか見えない。

「チクショー!また負けだ!」

男の嘆き声とともに、カードが宙を舞う。

「ちょっと!投げないでよ、すぐ次に使うんだから」

ナミが、賭け金を集めるためにテーブルに身を乗り出した。
ロビンに視線を戻し、私はスツールを指差しながら、

「ロビンたちも来たらいいのに」
「あら、元々は2人で来るはずだったんじゃ?──ありがとう」

ロビンがクスクスと笑いながら、新しい飲み物を受け取る。
照れくささに、私は首を激しく横に振った。

「もー!そうだけど、違うよー」

その瞬間、サンジが急にゴホゴホとむせはじめた。

「サンジ、大丈夫?どーしたの」
「さっきから微妙に…」

溶けた氷で薄くなったお酒を飲み干すと、サンジは戸惑ったように頭をかいた。
不思議そうな顔でこちらを見つめられても、私にはさっぱり意味がわからない。

お互い困り顔で見つめあっていると、頭上で小さな笑い声がした。

「ごゆっくり」

ヒールを鳴らしながら、ロビンは向こうへ行ってしまった。

ロビンを見送ったサンジが、私に視線を戻す。
微妙な空気を誤魔化すように、私はケーキを指差した。

「せっかくだからケーキ食べよー。誕生日…あ」

本来の目的を忘れていた。
その上もう1つ忘れていたものに気づいて、私は顔の前で手をあわせた。

「私、プレゼント忘れてた。ごめん、サンジ」

サンジはまた不思議そうな顔。
でも次には、なぜかウキウキと灰皿にタバコの先を押し付けた。

「おれは翡翠ちゃんといて楽しかったから──」
「もうまとめて来年でいいよね?」

同時に喋り出して、同時に黙りこむ。
がっくりと項垂れたサンジの顔を、慌てて覗き込み、

「…プレゼントいるんだった?」
「そうじゃねェけど。微妙にかぶってるのに、うまくいかねェな」
「何と?」

尋ねた事を、すぐに後悔した。
タバコをくわえたサンジの口元がニヤニヤと緩み始め、そのうちデュフデュフと笑い声をもらしはじめる。

「…もういーや。なんか想像ついた」

私は呆れながら、ケーキの1つをサンジの方へおしやった。

ブルックのバイオリンが、楽しげな曲を奏ではじめる。
お酒を飲みながら、少しの間演奏に耳を傾けていると、

「翡翠ちゃん」
「なにー?」

カウンターに手枕をしたサンジが、私を見つめていた。
見上げられる事の新鮮さに、少しドキドキしてしまう。

「また、一緒に来よう」
「ん?うん」

私の答えにサンジは躰を起こし、満足そうにケーキを食べ始める。
子供みたいな可愛らしさに、吹き出しながら尋ねてみた。

「もしかして、かぶってた?」
「どうかな。すげェ嬉しいから、もう、おれはそれでいいんだ」

サンジは最高にいい笑顔。
その表情に、思わず目を奪われながら、私は、言いそびれていた言葉をようやく口にする。

「サンジ」
「ん?」
「お誕生日おめでとう」

《The End》

2009.12.31(多分)
(改稿:20150509)
Midnight Daydream
Written by Moco
(宮叉 乃子)

※前サイトで期間限定公開だったもの
当時1Pに押し込んだため、長すぎて期日が記載できなかったらしく、正確なUP日付が不明です

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