"JE TE VEUX"
開いた本のページに、影がさした。
「ひでぇんだ」
顔をあげると、太陽を背負ったルフィが、駄々っ子みたいな表情で、私を見下ろしている。
「なにが?」
栞を挟んで本を閉じる。
重たい表紙がたてた、微かな風が前髪を揺らして。
それを整えながら尋ねると、ルフィは麦わら帽子に手をかけながら、口をへの字に曲げ、
「サンジのやつ、ひでェんだ」
拗ねたように、言った。
とくりと、胸が鳴る。
その名前は、他人の口からこぼれ出ただけでも。
私を、ときめかせる。
「酷いって、なに?」
前髪を引っ張るようにして表情の変化を誤魔化そうとしながら、視線をずらすと。
ルフィは膝に手をかけ、すとんと腰をおとした。
顔を覗きこまれ、躯がびくりと跳ねる。
「チョコ、くれねェんだ」
ルフィは、そんな私の態度を不審がる素振りもなく、口を尖らせながらぼやいた。
「チョコ…」
「作ってんだ、こう…」
微妙な手付きでサンジの所作を真似ると、
「こんな感じで。…だけど、おれたちの分はねえってんだ」
どくん。
鼓動とともに、視界がワントーン暗くなった気がする。
声が震えるのを気取られないように、私は小さな声で尋ねた。
「誰のは、あるの?」
「ナミだろ」
一瞬、息がとまる。
「ロビンだろ、んで翡翠。女のぶんしか、作らねェって」
《Valentine Day "JE TE VEUX"
「おっ、翡翠ちゃん。どうした?」
午後のキッチンに満ちる、柔らかく射し込む陽光と、チョコレートの香り。
「ルフィから送り込まれた、刺客です」
ドアを閉めながらそう言うと、サンジは笑いを噛み潰すようにしながら、
「翡翠ちゃんが刺客でも、言うことは聞けねぇな。今日のチョコは全部、レディ限定なんで」
休むことなく手元を動かし続ける、その側に。
ゆっくりと近づき、後ろから手元を覗き込んだ。
「『ひでェ』だって」
「野郎にくれてやる愛はねェ。…でも、おやつはちゃんと、用意してんだぜ」
視線の先を追うと、大きなお皿に山積みになったシュークリーム。
「ないって言われたら、余計食べたいんじゃない?チョコが」
手に入らないものを求める気持ちなら。
「かな。でも、食わせねェ」
この船の誰より判る。
「サンジ、つれなーい」
そう言って、笑ってみせながら。
欲しいものを手に入れられない事の、苦味を。
私は今、また味わっている。
「…手がこんでるね」
「麗しのレディたちのためなら」
「器用だよね、サンジ」
ボウルの中のとろけたチョコレートは、美しい光沢。
掬ったチョコレートをバットに落として、サンジが少しだけパレットナイフで触ると。
あっという間に出来上がる、薔薇の花びら。
「綺麗」
傍らに置いてある三つの箱には、白とピンクの薔薇が既に収められていて。
真ん中に一つずつ残る、空間。
「あ、そういえば見られちまってんな。晩メシの時、渡そうと思ってたのに」
「…箱を開けたら『綺麗』って、また言っちゃうと思うから、大丈夫」
話している間にも、花びらが薔薇の形に組み合わされていき。
完成した一つを、サンジが端によけた。