甲板の端に見える、赤い点。
振り返り振り返りそれを確認しながら、私は格子状に編まれたロープを下った。
お酒が入っているから、寒さは気にならない。
ただ、月のない暗闇に満ちる寂寥。
妙に静かな波音。
それが、私を急き立てた。
「サンジ」
身長ほどの高さから飛び下り、勢いまかせに足を進めて、
「怒ってるの?」
物寂しげな背中に、躰を寄せた。
右向の姿勢で背中に寄り添い、サンジの顔を見上げたけれど。
この位置からでは、表情が窺えない。
サンジの指が、口許のタバコを摘んで、
「翡翠ちゃんを?まさか」
煙混じりの言葉が、夜に滲んだ。
口許に戻されたタバコの先で、炎の赤色が強くなる。
「サンジは…私がゾロたちと飲むの、嫌?」
「翡翠ちゃんが楽しいんなら、構わねェ」
タバコの煙が、闇に白く浮かぶ。
それを見てから、背中に額を押し付け、
「嘘つき」
サンジの躰に腕を回し、そう呟いた。
微かに揺れる背中から、サンジが笑ったのが伝わってくる。
「そうだな。…嫌じゃねェけど」
何を言うのか気になって、顔を上げた。
空を見るような上向きの輪郭が、目に入る。
「…けど?」
「内緒にされたのが、もっのすげェ、淋しい」
思わず、笑ってしまった。
「ひでェな、翡翠ちゃん」
「ごめん。だってサンジが…」
なんだか、すごく可愛いから。
背中に顔をうずめ、クスクス笑う私の腕を、サンジが優しく掴んだ。
「翡翠ちゃん。おれが、何?」
可愛いって言ったら、どんな顔をするだろう。
見てみたい気もするけど、
「ううん、何も?」
今日はやめておく。
再び伝わる、背中の微かな揺れ。
「翡翠ちゃんも嘘つきだな」
「…ねぇ。サンジの顔、見てもいい?」
返事を待たずに腕をほどいて、右隣に並んだ。
見つめたサンジの顔に浮かぶ、困ったような笑い。
その表情、新鮮。
あの夜から、ドキドキさせられっぱなしで。
それは、もちろん幸せな時間だったけれど。
どうしよう。
こんな感じも意外と好き。
サンジといるといつでも、どんなことも嬉しくなる。
「この前のことがあるから、言ったら止められるって思った」
「うん」
背中に手を沿わせ、真ん中あたりの服地を軽く掴んで、
「黙って飲んでてゴメンね」
目を見つめたまま、呟いた。
ほっとしたように笑うサンジが、船縁に置いた灰皿でタバコを押し潰して。
私の肩を抱き寄せる。
「来てくれたから、構わねェ」
「ん?」
「置いてきた酒の肴に夢中だったら、どうしようかと」
返す言葉に迷いながら、心の中でゾロとフランキーに手を合わせた。
──危ない。
私、ちょっと甘えすぎてるかも。
「…『飲むな』って言っても、いいんだからね」
「言わねェ。楽しんでるの知ってるからな」
「うん」
サンジに寄り添いながら、肩口に頬を押し当てた。
見上げる私の視線を、サンジの瞳が絡めとる。
「でも、サンジだけは言っていいんだから」
目をあわせたまま、口許をほころばせた。
サンジの唇の端が、つられたように上がる。
「ね?」
「──でも、翡翠ちゃん」
私の額に額を当て、サンジが目を細める。
「言っても、やめねェだろ?」
「うん。飲みたいもん」
「ひでェ」
笑うサンジが、額をぐいぐいと押し付けてきて。
私も笑いながら、嫌がるふりをする。
「痛いって、サンジ。ひどくないよー、私」
「いや、ひでェよ」
額がさらに押し付けられ、鼻の頭がぶつかった。
笑み崩れながら、優しい眼差しを間近に見つめる。
「えー。じゃあ、怒る?」
「翡翠ちゃんに、怒るとこなんかねェから」
頬に触れた唇が、耳へと滑り、
「好きなとこなら、沢山あるけどな」
囁きが甘く蕩け、全身にまわる。
顔を少し離し、私の表情を確認すると、サンジは嬉しそうに微笑んだ。
再び、額を合わせる。
「翡翠ちゃん、寒くねェの?キスしたとこ、冷たかったけど」
「寒くないよ」
酔いもまだ残ってる。
それに、さっきの言葉──
今、暑いくらいなのに。
サンジが、残念そうにため息をついた。
「どうしたの?」
「『寒い』って言ってくれりゃあ、こう、後ろからギューッと」
「さっむーい。寒い寒い」
サンジと船縁の隙間に入りこみながら、慌ててそう言うと、
「だったら、しょうがねェよな」
背中に温もりが広がった。
私を包むように腕を回し、肩に顎を乗せたサンジが、首のあたりで囁く。
「早く、次の島につかねェかな」
「この前、楽しかったね。二人きりで」
「早く翡翠ちゃんに、好きなこと、好きなだけしてェ」
吹き出した私の笑い声を、冷たい海風がさらう。
その風がやむのを待って、囁き返した。
「私も」
「…良かった」
サンジの腕に力がこもる。
クスクス笑いが首筋を伝って、鎖骨の窪みに貯まり。
そこから、また全身が熱くなっていく。
二人で、同じことを思ってるのが嬉しい。
でも、たとえ違うことを思っていたとしても、
「楽しみだね。2人きり」
一緒にいるなら、きっと、それも嬉しい。
「あ、翡翠ちゃん。じゃあ今度、おれと2人で飲まねェか?熱燗つけるぜ」
「えー…」
「えーって…」
サンジが顎で、肩をぐいぐいと押す。
くすぐったさに首をすくめると、金色の髪に頬が触れた。
さらさらとした心地よさに頬擦りをして、
「サンジと2人だと、お酒の味に集中できなくなるから、いや」
「でも、美味い肴がつくぜ?」
「今日も作ってくれたでしょ。…食べそこねたけど」
ゾロとフランキーだけが飲んででも、手が空いてたら肴を作ってあげるくせに。
ちゃんと知ってるから、そんな事言ったってダメだよ。
肩の上で、小さな唸り声。
「あ。じゃ、今から食おうか」
「今から?」
「鮭かま焼きで、茶漬け。食いたくねェ?」
「食べる!飲んだあとの締めのお茶漬け、いいよね!」
思わず、パッと振り向いた。
それを器用に利用して、サンジは私の躰を半回転させると。
正面から、私の目を覗き込む。
「なに?」
「顔が見てェなって」
返事の代わりに、笑顔を浮かべた。
腰に手を回すと、掌から温もりが伝わってくる。
「翡翠ちゃん、これからは」
「ん?」
言いづらそうに口ごもったサンジの様子に、首を傾げると。
背中に回った腕が、少しだけ私を引き寄せた。
「飲み会の締めは」
「うん」
「おれの隣で食ってよ」
言い終わった瞬間、僅かに眉を寄せ、誤魔化すように私の肩に額を乗せたサンジが。
私の胸を、たまらなく熱くした。
やっぱり、可愛い。
いつもみたいなカッコいいのも、こういうところも。
もう、何もかも全部好き。
たくさんの想いを込め、私は頷いた。
「うん」
サンジの腕が、私をぎゅっと抱きしめる。
伝わったのなら、嬉しいけど。
「キッチン、行こうか」
「そうだね」
もう一度、ぎゅっと抱き合って。
私たちは手を繋ぎ、笑った。
今から向かう、その先で。
新しい2人の楽しみが、始まっていく。
《THE END》
2008.08.25
Written by Moco
(宮叉 乃子)