バーテンダーが休憩に出るのを見送って、エマは酒棚に寄り掛かった。様々な店を渡り歩いてきたが、用心棒の仕事に留守番が含まれているのは初めてだ。
狭いバースペース。
やたらと背が高く、邪魔な丸椅子を足で隅に蹴りやる。椅子がカウンターにぶつかると、乗っていたクッションが大きく跳ねた。
カウンターを挟んだ向こう側には、半分以上が空いたテーブル席が広がっている。
生演奏と囁くような会話、グラスと氷がぶつかる音が空気に満ちる平和な夜。ホール係も暇を持て余した様子で、バンドが奏でる懐かしいロックに躰を揺らしている。
少しばかりの客はおしゃべりに夢中で、追加のオーダーが入る気配もない。例え入ったとしても、本来用心棒のエマにはたいしたものは作れないのだが。
彼女は小さく欠伸をした。
場末のギャンブル場のバーは、気取る必要がないのがいいところだ。その代わり、客の動きには目を配っていなければならない。
テーブル席の客の表情は、頬をアルコールに上気させた満足気なものばかりだ。小金を稼いだ客は、安くないチャージ料金を払ってテーブル席でその幸運を楽しむ。
だが、そうでない客は──。
「おい」
声がかかる前に、エマは壁から背を離していた。
一面に墨の入った剥き出しの腕をカウンターに置いた男へ、愛想は抜きに問いかける。
「何にします?」
直接カウンターに注文に来る客は、総じて機嫌が悪い。そういう相手には一定の冷静さと慇懃さを保って対応するのが基本、というバーテンダーの言葉通りの振舞いだ。
「バーボン」
しかし、刺青の男は苛立ちを増した様子で早口にそう告げた。手に余る注文でなかった事に安心しながらエマは頷き、さらに問いを重ねた。
「ストレート?」
「早くしろ!!」
刺青で覆われた腕が、カウンターを殴った。殴打音は、ちょうど佳境に入った演奏にかき消される。
「かしこまりました」
すこぶるつきの機嫌の悪さも、カウンターの客にはよくある事だ。
殴るのが物ならば、エマの本来の役割を果たすまでもない。雇い主も、にやつきながら手にした札を数えるだけだ。
台に置いたグラスに、適当な量のバーボンを注ぐ。
注ぎ終わるか終わらないかのうちに、刺青が無言のままグラスに手を伸ばしてくる。エマは男の顔の前に素早く片手をつきつけた。
「先にお代を」
カウンターでの注文はキャッシュ・オン・デリバリー。後払い制のテーブルとは違う。
「るせェな、ツケだ」
「ツケ?」
エマは鼻で笑った。ギャンブル場併設のバーでツケとは、完全にヤキが回っている。
曲が大サビに入り、床から伝わってくる振動が強くなった。同時にエマと男の間に漂う不穏な空気も濃くなってゆく。
さりげなく男の後方に目配せをし、エマは左手を、先ほど蹴飛ばした丸椅子に乗るクッションへと伸ばした。
「大事にしたくないんですが」
「…だったら、貸してくれよ」
ナイフをちらつかせ、刺青が声にドスをきかせた。
「増やして返しにくるからよ」
目が座った男の後ろから、体格のいい従業員が三人近づいて来る。
従業員の手にモップと防水布があるのを確認して、エマはカウンターの下へ右手を伸ばした。
右手の先が冷たい金属の感触をとらえる。雇い主がエマに望んでいる事は1つ──金にならずトラブルになるだけのヤツは始末しろ。始末の結果の『始末』はつけてやる──。
彼女がたどり着くよりずっと前から、金か地位のある者はこの島では何でも出来た。これからも何でも思い通りにするだろう。
エマの持ちあわせているものは、彼らの道具程度にしかならない。抑制出来る良心と『普通なら』充分と言える戦闘スキル、彼女の持ち物は今のところそれだけだ。
刺青の視線が急に動き、そのおかげでエマもその客に気付いた。何の気配も感じなかったとは、こんな状況とはいえどうかしている。
「少々お待ち下さい」
早口に告げたエマに、スツールに腰かけようとしていた客は穏やかに笑った。
「ゆっくりで構わんよ」
そして状況を知ってか知らずか、音楽を楽しむかのように、眼鏡の奥で目を伏せた。
肩より長い白い髪、そして白い髭。長い歳月を経ると、人は周囲の事に鈍感になっていくという。
「すみません」
静かに右手を動かし、銃のグリップをぐっと握る。人数も回数も、数えるのはとうの昔にやめた。これはもう日常で、エマが生きてゆくための術だ。
足下に伝わる強いリズムと、耳に響く大サビ。懐かしいロックは、ここが一番の盛り上がりだ。
刺青の男が、無粋に鼻を鳴らす。
「早くしろ!」
「そうします」
年配の客が目を閉じ、音楽に聞き惚れているのを目の端で確認した。しかしこの距離なら保険がいるだろう、気休め程度の保険でしかないが。
金属製のトレイを放り投げる手間の分だけ、銃を取り出す動きは遅れた。
左手でクッションを男の顔に押し付け、重ねるように銃口を額の位置に合わせる。
意外にも素早い反応を見せた男が身をよじり、エマは思わず舌を鳴らした。
「クソッ」
ずれた銃を押し付けなおす僅かな隙に、刺青の腕がナイフを振りかざした。肩に傷を負うくらいは、もう仕方がない。
鈍った腕を自嘲しながら、エマは引き金にかけた指をしぼる。フリントロックの弾丸は一発。投げたトレイは間もなく床に落ちる。躊躇などしない。
しかしエマの指は次の瞬間、凍りついたように動かなくなった。
刺青の男が石像のように固まり、その後ろに立っていた三人もピタリと足を止める。
同時にテーブル席のさざめきも、水をうったように静まり返った。音楽だけがラストに向けて走り続けている。
トレイが床で弾む音に反応したかのように、男の手からナイフが落ちた。エマは慌ててトレイを拾い上げる。
テーブル席の客は音に気づいた様子もない。だがカウンターの客は穏やかな微笑みを浮かべたまま、真っ直ぐな視線を彼女に向けていた。
その視線を受け止めながら、エマは震える指で頬を探る。電流のように肌を撫でていった、鋭い何かを確認するように。
外した指には何もついていない。つく筈がない事も、エマにはすでに判っていた。
──あれは覇気だ。
恐ろしく鋭くて、強い覇気だ。
大サビが終わると共に、刺青の男は後方へ倒れた。鈍い音が床を揺らすが、テーブル席の客はそれに気づいた様子もなく固まっている。
ただ気絶した男の後ろで、硬直したり膝をついたりしていた三人は、その振動で我にかえったらしかった。
「エマ……」
首を傾げながら近づいてきた三人に、彼女は早口に指示を出す。
「処理はいい、生きてる。出禁手続きして放り出して」
銃をしまい、男の傍らで素早く動き出した三人に背を向けると、エマは老客の前に向かう。
目を閉じ、笑顔を浮かべたままの男の前に立った時、バンドが最後の音を奏でた。
訪れた静寂に、おしゃべりを失っていた酔客たちが戸惑いをみせ、演奏を終えたバンドはその様子に首を捻った。
「いい演奏だ」
目を閉じたまま顎髭をひと撫でし、スツールの上で身体を捻ると、男はバンドに向けて拍手を送る。
つられたようにテーブルからも拍手が湧き起こり、バンドメンバーがほっとした様子で深々と頭を下げた。次のスローなナンバーが、新たにバーの中を満たしてゆく。
「ありがとうございました」
「ん?」
エマの告げた礼に、カウンターに向き直った男はニヤリと笑った。
「礼を言われることは何もないが」
「いえ、すごい覇気でした」
「ふむ…」
再び顎髭を撫でながら、老客はなぜか渋い表情を見せた。
「余計な世話だったかもしれんな」
「まさか」
エマは心外といった表情で、カウンターの方へ身を乗り出す。さっきの覇気、右目に縦に走る傷。この島にいるという噂は耳にしたことがあったが、まさか──。
「こんなところで、『冥王』シルバーズ・レイリーにお会い…」
「いや、私はただのコーティング屋のシジイだよ」
「『ただのコーティング屋』に、あんな覇気は使えません」
きっぱりと言い切ったエマを見つめ、冥王は言い逃れを諦めたのか首を振った。
「──若い娘さんがケガをするのは忍びなくてね」
「一杯、いかがです?バーテンダーが不在で、凝ったものは作れませんが」
「じゃあ、そこのバーボンを貰えるかな」
冥王は、刺青の男がオーダーしていた酒に目をやる。エマは眉根を寄せながら、指で酒棚を示した。
「安酒ですよ、もっと」
「それで充分だ」
彼女の言葉を素早く制して、彼は再び琥珀色の液体の入ったグラスを見る。エマは肩を竦めてそれを手に取った。
「ありがとう──少し話をしていいかな」
「喜んで」
グラスを渡す時に当たった指は熱かった。遠い憧れのはずだった生きた伝説に触れたのだと思うと、遥か昔に失ったはずの何かが躰の中から沸き上がってくるような気がする。
冥王は酒の香りを楽しむように、グラスを小さく揺らした。
「君はなぜ、こんなところにいるんだね?」
「先を目指すには力不足で」
希望を持って上陸したこの島で、心を折られるまでにはそう時間はかからなかった。粗悪なコーティング屋に引っ掛かって金も仲間も失い、覇気使いの海賊に嬲りものにされて命さえも失いかけた。
人には出来る事と出来ない事がある、たとえどれほど望んでいたとしても。それがエマがこの島で得た教訓であり、凡てだった。
「そうは見えない」
酒で唇を湿し、冥王は『美味い酒だ』と続けて呟く。黙り込んだエマと彼の間にしばしの沈黙が流れ、その隙間を音楽だけが先に進んでゆく。
「さっきはあの男だけでなく、君も倒すつもりだった。ここは狭すぎてね」
静かな言葉がエマの耳に届く。瞳を伏せて冥王はグラスに口をつけた。琥珀色の液体が緩やかに傾く。
「あの『覇気』に耐えられるなら、先を目指す資質は充分ある」
エマを見据えた視線は力強く、彼女は思わず背筋を伸ばした。眼差しの強さをふっと収め、次に冥王が浮かべた微笑みは温かかった。
「新しい出会いはまた来る、何度でもではないかもしれないが。自分が船長ではない航海というのもいいものだよ、船長次第だがね」
「──羨ましいです」
「私の冒険は確かに格別だった。だが君のこれからがそうならないと誰に言える?」
冥王が隣のスツールから取り上げた新聞を、エマに差し出した。
「これを君にあげよう」
新聞を受け取る時には、伝説に触れる事は出来なかった。
「今この島には、君と同じ『これから』の海賊が沢山いる。そういう事に君はわくわくしないかね?」
新聞の第一面は億超えの賞金首が、このシャボンディ諸島に顔を揃えつつあるという内容だった。掲載されている数枚の手配書に映る顔は、自分の力への揺るぎない自信に満ち溢れている。
かつては、エマ自身もこんな表情をしていた。かつて──『かつて』で終わらせていいのだろうか、彼女の冒険を。
エマを見つめていた冥王が、満足そうに頷いて酒を飲んだ。
「老人の昔語りが過ぎたかな」
「いいえ──お話のお礼も必要になりましたね」
「なに、そっちは簡単なことだよ」
クスクス笑いを漏らし、チラリと上目遣いをエマに向けた冥王は、次の言葉を発する前に少しだけ間を置いた。
生演奏のスローナンバーが、終わりに近づいているのが耳につく。
「私を人間屋に売って貰えないかな」
思わず新聞を取り落としそうになったエマを見て、冥王は顎髭に手をやりながら豪快に笑う。その後の目配せは、何とも言えず茶目っ気があって魅力的だった。
「軍資金が底をついてね。ごちそうにならなければ、無線飲食で売られるつもりだったんだが」
冥王の目的を察して、エマは安堵の息をついた。驚かされたお返しとばかりに、彼女は軽口を口にする。
「『冥王を売った』を謳い文句にするかもしれませんよ」
「構わんよ」
冥王は静かに笑った──静かだが自信に満ちた笑み。売り込み口上を使ってチャンスを得ても、その後は実力を示さなければならない。
エマ自身、それが判らないほど経験が浅いわけでも、愚かな訳でもなかった。だからただ微笑み返す。
「明日のオークションは見ものですね。覗きにいきますよ」
「悪趣味な催しだよ」
「この島の悪趣味さを、旅立ちの前に目に焼き付けておくべきかと思いまして」
エマの眼差しを受け止めて、冥王は強く頷いた。
「共に旅立つ仲間が見つかったら、コーティングは請け負おう。安くしておくよ」
「だったらコーティング代金を稼がないといけませんね。人間屋にせいぜい高く売って貰わないと」
冥王が吹き出すように笑い、持っていたグラスを高く掲げてから、一息に飲み干した。
テーブル席で拍手が起こり、バンドがまた新しい曲を奏で始める。
エマも笑い出しながら電伝虫に手をのばした。旅立ちへの乾盃の礼として、ここでの最後の給料で冥王にもう一杯ご馳走させてもらう事にしよう。
冥王への奢りを自慢するくらいは、彼女にもきっと許されるはずだ。
A LITTLE LESS2015/07/13
Written by 宮叉 乃子