Others | ナノ
So Deep Is The Night

──血と火薬の匂いが充満した空気、響き渡る怒号と悲鳴、下卑た笑い声。

大人に押し込まれた狭い空間で、拳を噛んで泣き声を抑えたあの長い夏の1日。
長い悪夢のような時間が過ぎ、救いだされた時に見たのは「正義」の文字を背中に背負った人々だった。
あの日を「昔」といえるくらいの年月は既に過ぎた。それでもエマは、まだ海賊を憎んでいる。





──夜の海岸は満天の星と波のさざめき、そして煙の匂いに満ちていた。

濡れた砂を踏み、その感触を楽しむエマのブーツの表面を波が洗ってゆく。

前日までこの島で海軍と海賊との激しい闘いが繰り広げられていたとは思えないほど、今夜は静かで穏やかだ。エマたち海兵は広がった火を消し止め、傷ついた住人や仲間たちの治療を行い、上官は本部への報告を済ませた。

闘いが勝利で終わっても、彼女に満足感はなかった。善良な民間人が暴力に脅かされる事象、それが起きること自体に自身の無力さを思い知るばかりだ。
強くなりたい、全ての無法を許さない為の強さが欲しい。その望みは、あの夏の日から揺らぐことはない。

エマは、手にしていた瓶から直に酒を飲んだ。気分は晴れやかでなくとも、炭酸ののど越しはいつも通り清々しい。政府機関の人間に相応しい振舞いではないが、このくらいの自由なら上官も許してくれるだろう。

彼女の直属の上官]・ドレークは職務に忠実で、任務の遂行能力も高く、若くして少将になるだけの実力を持ち合わせていた。もちろん強さは折り紙つきだ。特に、悪魔の実の能力で獣脚類の恐竜と化した時には、激烈で圧倒的な戦闘能力を見せる。エマはその姿にも憧れと尊敬の念を抱いていた。

歩いているうちに崩れかけた石垣の側を通りかかった。今回の戦闘で破壊されたのではなく、長い年月とともに少しずつ欠けてきたもののようだ。
長めに残った石垣に背中を預け、海を見つめる。ごつごつとした感触は寄りかかるには具合が悪かった。身長より少し高い石の上に酒瓶を置いて、エマは身軽に垣をよじ登り、そのまま縁に腰を下ろす。

波の音だけが響く中、しばらく海を見つめていた。海と星空の境目、時折白く光を反射する波飛沫、跳ねる大きな魚の影。時折瓶に口をつけながら、風が髪を揺らすのをただ感じている。流れる穏やかな時間。
ふと、左側から砂を踏む音が近づいてくる事に気づき、エマは素早く瓶を背中に隠した。

「エマか」
「ドレーク少将!」

足音の正体を知り、彼女は思わず驚きの声をあげてしまった。

「堅苦しい挨拶はいい」

慌てて石垣から下りようとしたエマを、ドレークは片手で制する。普段は見上げているばかりの長身の上官を、座ったまま見下ろすというのは不思議な感覚だ。
エマは背筋を伸ばして、仕事のときの口調で問いかけた。

「少将、ここで内密の会合などが…?」

言葉を遮るように、ドレークが手にしていた酒瓶を彼女の眼前に示した。エマが持ってきたものと種類は同じだが、大きさはだいぶ違っている。

「ない。おそらく、お前と同じ気分なだけだ」

細長い瓶の首を持って歩いてきた彼女と違い、ドレークは瓶の肩の部分を掴んでいた。ほんの僅かな間、エマは手の大きさの違いについて思いを巡らせてしまう。
寸分の狂いもない動作で、彼が石垣の縁に瓶の口元を打ち付けると、王冠が外れ泡が勢いよく溢れだした。我に返ったエマに見せつけるように、ドレークは再び瓶を掲げ、軽く揺らす。
背中に隠していた酒瓶を、彼女は苦笑いしながら差し出した。二つの瓶が触れ合う音が波間に響く。

「上がお前を褒めていた」

酒で喉を湿したドレークが、そう口にしながら石垣に背中を預けた。エマは唇を瓶の口にあてたまま、あまり見ることのない角度からの上官の姿を楽しむ。

「ありがとうございます。でも私は、ドレーク少将に教わった事を実行しているだけです」

斜め後ろから盗み見る輪郭を目でなぞりながらも、口調だけはきちんと取り繕う。

「少将の下につけて良かったです。早くもっと強くなって、今よりもお役に立てるよう頑張ります」

少しの沈黙。エマは居心地悪く握っている瓶を弄んだ。何かまずい受け答えをしただろうか。
ドレークが瓶に口をつける。僅かに瓶を傾け唇を湿すと、彼は静かに問いかけてきた。

「エマ、お前にとっての強さとは何だ?」
「強さは正義のためにあるものです」

回答はするりと口をついた。あの日から考え続けて、エマが辿り着いた結論そのままだ。なのに言葉にした途端、なぜか胸にもやもやしたものが生まれる。
酒を飲み干すことでその気持ちを誤魔化し、空いた瓶を石垣の上に置く。コツンという乾いた音がやけに大きく響いた。

ドレークが、長く静かに息を吐く。

「──お前は海賊嫌いだったな」
「はい。海賊も、それに加担する奴らも大嫌いです」

上官の瞳が彼女を見上げた。その目を真っ直ぐに見つめ返しながら、エマははっきりとした口調で喋り続ける。

「私は、この世の無法者を1人残らず始末できる強さが欲しいです。その強さこそが正義です」
「おれの父も海賊だった。法に背く事を手伝わされた事もある──おれも殺しておくか?」

エマは思わず息をのんだ。
ドレークは海に目を向けて、酒瓶に口をつけた。驚きに見張っていたはずの彼女の目は、いつの間にか彼の喉の動きに見とれてしまっている。
喉を潤したドレークは、エマに視線を戻した。

「上を目指すのなら、もっと柔軟な考え方を身に付けろ。今のお前ではじきに行き詰まる」

その視線を、エマは不思議な気持ちで受け止めた。
ドレークは普段も、部下に目を配って引き立ててくれる優れた上官だ。彼女も厳しい指導をうけた事があった、そして誉められた覚えも何度もある。
だけど今彼女は、ドレークの瞳に懸念の色を見つけていた。微かな不安が胸を過る。

「…さっきのは嘘ですか?」
「いや。本当だ」

ふっ、とドレークの視線が揺らぐ。彼の部下として、エマは年単位の時間を過ごしてきた。けれど、そんな上官の表情を目にするのは初めてだった。

風が運んできた煙の匂いが鼻につき、夏の日の記憶が頭の中に次々と浮かんでは消えていった。破壊と略奪、肉片、炎、血刀。そして最後に現れた、力強い「正義」の文字。

「私、海賊は嫌いです」

頭に過去の記憶、瞳に目の前の男を映しながら、エマは両手をドレークへと伸ばした。
包みこむように頬に手を添えた彼女が少し顔を近づけると、見つめあう先の眼差しが僅かに細くなる。見慣れた頼もしい上官の表情とは違う、大人の男の顔。
彼女は片手をずらし、指先でドレークの顎の十字の傷をなぞった。

「でも」

エマは、唇でドレークの顎の傷に触れた。顔を離し、真っ直ぐに瞳を見つめる。
僅かに細めた眼差し、それ以外に少しの動揺もみせないこの男に、どうしてこれほど惹かれるのだろう。
早く強い鼓動が震えに変わる前に、エマは言葉を続けた。

「あなたが好きです、ドレーク少将」

エマ言葉の最後は、唇同士が合わさるのと重なって、はっきりとした発音にはならなかった。ドレークの熱い唇から僅かに隙間を開けると、彼女は覚悟を決めるように短く息を吐く。

再び唇を合わせると、エマは舌を送り込もうと試みる。伸ばした舌先がドレークの舌先にぶつかった瞬間、彼女は思わず顎と手をひいてしまった。
少しの距離をおいて2人は見つめあう。吐息が互いの唇を濡らしている。

「これは教えた覚えがない」
「…独学です」
「さすがに勉強熱心だ」

ドレークは笑って石垣に背中を預けなおした。自分の答えの不適切さに赤くなりながら、エマも姿勢を正した。手にはまだ、彼の頬の温度が残っている。
少しの間、2人はただ夜の海を見つめいた。彼女が言うべき言葉を見つける前に、上官が口を開いた。

「今回の働きで昇進があるだろう。エマ、お前はうちの出世頭になるかもしれんな」

エマの心臓が大きく跳ねた。彼女は力を求め、これまでも武勲をあげて来た。だが、階級をあげすぎると配置転換の可能性が高まる。
ドレークが昇進について触れたのは、上との間でそんな話が出たからではないか。エマは必死の思いで口を開いた。

「私、少将に教わりたいことが、まだ沢山あります!」
「──そうか」

翳りを見せた上官の横顔に、彼女の不安は増した。
ドレークが一瞬目を閉じて、手にしていた酒瓶を砂浜に落とす。鈍い音がやけに遠く聞こえる。

エマに向けられた瞳は、先程と同様に少し細められていた。
大きな手がゆっくりと伸びて来る。何が起こるのか想像するより早く、彼女の全身は沸き立つように熱くなった。

「それなら、これも教えておこう」

ドレークの指が、エマの耳の後ろをくすぐるように撫でる。視線にも温度があることを、彼女は今初めて知った。向けられる熱い眼差しから目を逸らせない。
ドレークの左手が耳から頬に動いた。触れられる度、熱にうかされた状態のエマの膚は微かに震える。親指が彼女の唇を撫でると、そこから全身に電流が流れるような感覚が走る。

背中が跳ねるのにあわせ、エマは思わず躰を引いた。だがドレークはそれを許さない。
後頭部に回った彼の手がエマを引き寄せる。彼女が思わず石垣に手をつくと、砂粒が膚を擦った。

睫毛が触れあいそうな距離で見つめあう瞳。唇同士は僅かな空間を挟んで距離を測りあう。波の音よりずっと近くにある互いの息遣い。熱い舌がゆっくりと彼女の唇の形をなぞる。熱情がエマの頭の中を白一色に染めた。

先に求めたのはどちらだったのか。唇が触れ合う前に瞳を閉じたエマには、その答えは判らなかった。そして判らなくても構わなかった。
ドレークの指が耳を玩ぶ。その感触に躰を震わせながら、彼女もドレークの頬に手を這わせた。

「……えっ」

突然、ドレークの親指が互いの唇の間に差し込まれる。前屈みの窮屈な体勢のまま、エマは焦りを感じていた。何かおかしなことをしてしまったのか。
ドレークの視線はエマから僅かに外れており、何か考えているようだった。

「あの…?」
「……」

返事の代わりなのか、ドレークの指がエマの唇をさらりと撫でた。次に彼の両手が彼女の腰にかかり、そのまま石垣から抱え下ろす。
砂浜についた足に力が入らず、エマは力の入らない手でドレークの二の腕にすがりついた。
彼の左腕が腰に回り、崩れ落ちそうなエマの躰を支える。その腕の力強さに、彼女は自分の躰の柔らかさを思い知った。

ドレークの右手がエマの頬を包む。彼女が見上げた先で、彼の唇の端が上がった。

「見下ろされるのは落ち着かん」

エマが彼を見上げる、確かにこれはいつも通りの構図だ。だがそうなったところで、エマはとても落ち着けそうな気分にはならなかった。
覗き込むようなドレークの眼差し。それを見つめ返すうちに、エマの瞳は潤みはじめた。こみ上げ、溢れだそうする感情は、彼女自身でも制御不能になりかけていた。

「……一本気な事は脆さもあるが、武器でもあるな」

ドレークはそう呟きながら、片手で彼女の両目を覆った。そのまま、彼は額をエマの額に押しあてる。互いの鼻が軽く擦れあい、手のひら越しに軽い圧力を感じた。エマの頭の中にどくどくと脈動が響く。

「エマ」

ドレークは後の言葉を続けなかった。それでも彼女の中に、先ほどと同じ不安が沸き上がってくる。エマの知らないことを、彼は既に知っている。そしてそれは恐らく、彼女にとっては有難くない知らせなのだ。

目を覆っていたドレークの手を剥がす時、彼女の両手は震えていた。開けた視界のすぐそこで、彼は穏やかな表情をしてエマを見つめている。
戦闘の時には頼もしいと感じるだけのその余裕も、今は彼女の心を狂おしくする材料でしかない。
大きな手のひらを包みこむようにして口元へと引き寄せながら、エマはかすれた声で精一杯の言葉を紡ぎだした。

「好きなんです」
「さっきも聞いた」
「側にいたいんです。ずっと、側に」

ドレークは微笑み、彼女の手の甲に唇をあてる。エマには、答えないその狡さを追及することが出来なかった。こみ上げてくる感情を抑えきれず、エマは彼の首にすがり付く。

更けてゆく夜の静寂に響く波音、その合間に耳に届く互いの息づかい。幾度となく重なりあう唇。彼女はそれでも、これから何かが始まるのだと信じていた。だが彼はやはりこの時、間もなく別れが訪れることを知っていた。

その別れがエマの想像しているよりも遥かに苛烈なものであることも、もう既に知っていたのだ。




──私は、自惚れていた。

エマは首を振って過去の記憶を頭から消し、手にした紙の束に目を落とした。マリンフォードからほど近いシャボンディ諸島、今この島にいる11人の億超え「ルーキー」たちの手配書の束だ。

彼女が寄り掛かる木の根、その持ち主である巨大なヤルキマン・マングローブには、17GRの文字が見える。
シャボンディ諸島で海賊が潜伏するなら、無法地帯の1〜20番台を選ぶのが普通だ。だが彼女はまだ億超えの1人にも会うことは出来ていなかった。

普段と違って人員が他に割かれている今は、公的な情報はかなり価値が薄いものになっている。部隊の仲間以外とは殆ど付き合いがないエマには、ここで情報源になってくれそうな知人もいなかった。

エマの足下からシャボン玉が湧いた。傍らの生き物が、グルグルと喉を鳴らして前肢を伸ばす。

エマの肩ほども体高がある、大きな黒い猫科の生き物。種類は判らないが、貸与されたこの雌の個体が『バステト』という名前なのは知っている。速さに優れて小回りがきく、シャボンディ諸島を単独で動くためにはうってつけの移動手段だ。
甘えてくるバステトを撫でてやりながら、エマはここに来た理由をまた思い出していた。


火拳の公開処刑の公表を控え、海軍本部は対応準備に追われていた。そのためエマが所属する部隊にも、マリンフォードへの駐屯命令が下った。
そこで彼女は、シャボンディ諸島にルーキーが勢揃いしているというニュースを耳にする事となった。

マリンフォードからシャボンディ諸島は目と鼻の先。飛んでいきたいという気持ちと待機命令の間で、エマは身を引き裂かれそうな思いをしていた。

『行ってこい。顔を見りゃ判ることもある。理由?何とでもなる』

迷う彼女の背中を押した、今の上官の豪快な笑い声が耳に蘇る。奔放な振舞いばかりの中将だが、今回エマに向けた計らいは珍しく細やかだった。
この島に向かう途中で、ようやく上官の置かれている立場に思い至った時、彼女の胸は酷く痛んだ。


ここで自分自身に決着をつけなければ、ガープ中将にあわせる顔がない。
そう思っていても、海賊になったかつての上官の顔を見て、自分が何を感じるのか──考えれば考えるほどエマはその時を迎えるのが怖くなるばかりだった。

脇腹にバステトが顔を擦り付けてくる。邪魔になる腰のサーベルは、今は外して手に握っていた。この島にいる間はこの生き物だけが相棒だ。
仲間の付き添いの申し出を断った事を、彼女は後悔してはいなかった。

突然、子電伝虫が緊急を知らせる泣き声をあげた。耳障りな声に、黒い生き物が背中の毛を逆立てる。エマが応答した瞬間、叫ぶような声が辺りに響き渡った。

「緊急事態発生!!"人間屋"…いや"職業安定所"にて、海賊が天竜人に危害を加える事態が発生しました!」

聞こえてきた言葉にエマは耳を疑った。驚きのあまり取り落とした手配書の束が、地面に触れてバサリという音を立てる。

「首謀者は"麦わらのルフィ"!また"キャプテン・キッド""トラファルガー・ロー"も共謀の可能性ありとのこと」

続いて聞こえた"麦わらのルフィ"の名前に、エマは納得し、その後暗澹たる気持ちになった。
億を超える賞金がついていても、ようやくシャボンディにたどり着いた程度の海賊だ。海軍大将と渡りあえるような力など、まだ持ち合わせてはいないだろう。

今でも海賊は嫌いだ。
けれども上官と部隊の仲間たちの事を思うと、彼女の心は千々に乱れた。

厳戒体制を敷くことを告げ、緊急連絡はオフになった。政府が現在、シャボンディ諸島に割いている兵力は多くはない。将校であるエマも、召集から逃れられない事は判っていた。

足下に散らばった手配書を拾いあつめる。裏返しになっていても、特にぼろぼろになった1枚がやけに目につく。最後に拾いあげたそれを束の一番上に置いた。
『]・ドレーク 懸賞金2億2200万ベリー』穴があきそうなほど何度も見返したこの1枚。

帽子、マスク、この服、写真に映っている元上官の姿には未だに慣れない。ただ、聞こえてくる評判も含め、何もかもあの頃とは違ってしまった。その事はもう、エマも受け入れていた。

彼女は手配書を乱暴に折り畳み、海軍コートのポケットに押し込む。サーベルを腰に装着すると、バステトが不服そうに鳴いた。

手にした子電伝虫に向かってマリンコードと所在を報告しながら、つい、このまま会わずにすむかも知れないと考えてしまう。エマは、そんな自分に苛立ちを覚えずにはいられなかった。




──貼り出された辞令に、エマは目を疑った。

あの日が非番だった事を、彼女は何故か鮮明に覚えている。なにか事件があって、掲示板の前もやけに閑散としていた。
基地中を駆け回り、最後に外に飛び出したエマは、ようやく上官の後ろ姿を見つけることが出来た。

「ドレーク少将!あの辞令は…」

振り返った上官の表情を目にした瞬間、エマは立ち竦んだ。唇を引き結んだ真剣な顔は今まで何度も見た。だが、こんなきっぱりとした清々しさを漂わせていた事はない。

「エマ、おれがお前に教えてやれる事はもうない。次の上官はお前の足りないところを埋めてくれるはずだ」
「私の事じゃありません」

彼女はすでに異動を覚悟していた。そこは問題ではない。
ドレークの表情に現実を悟りながら、エマは懸命に自分を奮い立たせた。

「少将、退役とは…!軍を辞めてどうするつもりなんですか…!?」

強い風が吹いた。掲げられた海軍旗がはためく音があたりに響く。ドレークはポールの上部を冷たく見上げた後、また彼女に視線を戻した。
エマを見る目は温かかったが、一瞬その唇が歪んだのを彼女は見逃さなかった。

肩にかけたボンサックをおろし、ドレークは躰ごと彼女の方へ向き直る。エマをまっすぐ見つめたまま、ドレークは口を開いた。

「お前には言っておくべきだろう。おれは──」

その後に続いた言葉を耳にした瞬間、彼女は氷の槍を脳天から突き刺されたような気持ちになった。全身の血が冷えきってしまったように、足先から頭まで躰のすべてがただ寒い。

「…海、賊!?」

自分の口で、鸚鵡返しに呟いたその言葉。
理解した瞬間に、彼女の躰は燃えるように熱くなった。蘇るあの夏の絶望、沸き上がるドレークへの怒り、頭の中を掻き乱す混乱。彼女は叫びだしたい気持ちを抑えるように、胸の前で強く両手を握りあわせた。

「意味がわかりません。我々の敵になるという事ですか?討伐対象になるんですよ!」
「それでいい」
「イヤです!どうしてですか!?どうして海賊になんか」

結局、言葉は叫びになった。
ドレークが素早く周囲を見回す。いつでも獣型になれるよう備えている、それが判ったエマは深呼吸をして声を落とした。

「申し訳ありません」
「いや、おれのせいだ」

海賊になる為の退役など、軍は決して赦しはしない。エマも、目の前で上官が捕えられる姿など見たくはなかった。
ドレークが緊張を弛め、彼女へと歩み寄った。小声で話せる距離。

強風がまた、旗を激しく揺らす。ばさばさと鳴り止まない音の方へと目を据えて、ドレークは呟くように言葉を吐いた。

「…正義が、わからなくなった」
「少将…?」

見上げてもドレークの表情は窺えなかった。風を受ける海軍旗に負けている。
エマは、彼の注意をひくための言葉を探す。

「私は、ここの正義に助けられました」
「そうだな。おれもかつてはそう思っていた」

ドレークはそう返しながらも、視線を落とさなかった。込み上げる苛立ち、そして悲しさに、エマはまた声を荒げてしまう。

「少将の中で何が変わったんですか!?どうして」
「エマ」

ドレークが彼女の問いを遮る。
そして、その眼差しがエマを捕らえた。
さっきとは違う、この前夜の海辺で見た表情。彼女は思わずびくりと肩を震わせた。

「おれと来るか?」
「…ムリです」

返事は反射的に口をついた。こみ上げる涙を懸命にこらえる。
ドレークに向かってこの言葉を使う事になるなど、エマは考えたことすらなかった。

「海賊は…嫌いです」

そして、考えると同時に現実となった。
目の前がふと一段階暗くなったような気がした。唇が震える。これは酷すぎる現実だった。

「そうだな。お前はそれでいい」

この時ドレークが笑った理由が、エマには今でもわからない。

闘いの最中や訓練の中で見せた導くような表情を浮かべ、上官は腰をかがめると彼女に目線をあわせた。

「エマ、お前にはそれが正しい事だ。信じられる限り、その道を真っ直ぐに進め」

そして言い終わると同時にすっくと立った。見上げたドレークの顔は、実際の距離よりずっと遠くにあるように感じられた。

「おれにはもう、それは出来ん」

海賊旗がはためく音が、エマには急に耳触りに感じられた。だがドレークはもう、視線をそちらには向けなかった。

「ドレーク少…」
「さよならだ」

大きな手のひらがエマの頬を撫でる、別れの儀式はそれだけだった。ボンサックを拾い上げ、そのまま歩き去る彼の背中を見ながら、彼女はただ立ちすくんでいた。

エマは未だに、自分の中の迷いに結論を出せていない。
あの時失ったのは信頼を寄せていた上官だったのか、それとも愛した男だったのか。




──港へ向かう途中で通りかかった24番グローブ。そこで恐竜の後ろ姿を目にした瞬間、エマは息が止まりそうになった。

黒い獣に小声で『止まれ』の指示を出し、静かにその背をおりる。すぐさま『隠れろ』のハンドサインを作ると、バステトは足音1つ立てず姿を消した。

恐竜姿のドレークはパシフィスタと闘っている。この姿を先に見る事は予想していなかった。
そして自分がどうしたいのかを、エマはまだ判っていなかった。

恐竜が動く度砂煙があがり、彼女の足下でも地面が震える。地面に近いほど視界は悪くなった。エマは視線を上方に固定する。すると、パシフィスタの向こう側にもう1つ巨大な影が見えた。

「"怪僧"ウルージ!?」

彼女は瓦礫の陰に身を潜めながら、恐竜たちとの距離を少しずつ詰めてゆく。パシフィスタのレーザーが躰を掠めたのか、ウルージがよろけた。エマはそれを少し不審に思う。

パシフィスタについて、彼女は通り一辺の知識しか持っていない。だが、レーザーが膚を掠めただけで億超えの賞金首がよろけるものだろうか。しかもウルージは、パシフィスタや獣型のドレークと並ぶほどの巨体だ。

エマは息を殺して、しばらく3人の戦闘を見つめる事に集中した。すぐにドレークの動きもおかしい事に気づく。どこかを庇っているようだ。
この周辺だけ、建物の破損状態が激しい事と関係があるのかもしれない。

パシフィスタが手のひらを構える。そこから発射されたレーザーは、ドレークたちとは関係のない場所を焼いた。また派手な土煙があがる。
レーザーをジャンプで避けた、新たな2つの人影。土煙で見辛いが、ここにいるのは3人だけではなかったらしい。海兵でないことは、エマには雰囲気で判断できた。ドレークかウルージの部下だろうか。

人影の1つがエマの数メートル先に着地した。長い髪をしたその男は、着地と同時に脇腹を押さえて膝をつく。
彼女は深く、そして静かに息を吐いた。エマと男の位置は、ほぼ直線上で並んでいる。男が立ち上がれば、すぐに発見されてしまうだろう。他に移動するにしても同じだ。

先に仕掛けるしかない──エマは男に向かって走った。男が顔を上げ、立ち上がろうとする。
彼女は地面に両手を付き、遠心力を使って躰を回転させた。脚で、挟むように男の腕を絡めとり、そのまま大きく捻る。体勢が整っていない今なら、地面に倒せる算段はあった。
だが、急に脚に伝わる男の腕の感触が変わった。エマは理由を考えるより先に飛びすさり、男と距離をとる。

「バジル・ホーキンス!?」

男の顔を見て、エマは唸った。さっきも手配書で見た顔だ。
立ち上がったホーキンスが、彼女が技をかけた腕を軽く振る。その腕は藁の束と化していた。能力者だ。
手配書には、海賊の持つ能力については記載されていない。もちろん情報収集は行われているが、知る事の出来る人間は限られている。
エマはまだ、その立場にはなかった。

「なんだ?次から次に出てくるな」

現れたスクラッチメン・アプーの姿に、エマは頭を抱えたい気持ちになった。
億超えのルーキーがなぜ、4人もここに集まっているのか。エマにはこれも全く想定外のことだった。

彼女はまだ、複数の能力者相手に向こうを張れるほどの力は持ち合わせていない。そのことは自分でも重々判っていた。
だが脇腹を庇っていたホーキンス、顔に血を拭った跡のあるアプー。2人はドレークやウルージと同じく、深手を負っているように見える。エマが勝機を見出だすならそこしかなかった。

パシフィスタと争う古代の竜が後退り、重たい音が辺りに響く。そのタイミングでアプーが動いた。
繰り出された素早い突きをしゃがんでかわし、その流れでエマはアプーの足を払おうとする。だが手長族の手のリーチの長さは、彼女の躰では埋められなかった。

立ち上がって構えたエマを見て、アプーは鼻で笑った。

「まぁ、弱かねェな」
「そう?億超えも大したことないのね」

海賊相手になら、幾らでもこんな事を言える。エマの言葉に、アプーが苛だちの表情をみせた。ペースを乱す程怒らせる事が出来れば、彼女の勝算は増える。

長い手を生かしたアプーの攻撃から距離を取るため、ひとまずエマは後方へ跳んだ。
その瞬間、視界の隅で大きな影が動くのを感じ、彼女は素早く首を廻らせる。ドレークと怪僧ウルージ、そしてパシフィスタ、巨体のぶつかり合う闘いの場がすぐそこにあった。

「よそ見をする余裕があるのか?」

エマは答えるかわりにサーベルを抜き、バジル・ホーキンスの剣を受け止めた。衝撃に手が痺れるのをこらえながら、脇腹に向かって蹴りを放つ。
ホーキンスは肘で彼女の足を払いのけたが、その動きが傷に響いたのか、眉間に深い皺を寄せた。
そして互いに武器を引き、距離を測る。

「自分の傷を心配してれば?」
「おれは今日は死なない」

冷徹な目をしたホーキンスは、当たり前の事のようにそう言った。どういうつもりか手にしていた剣を鞘に戻し、彼女を見定めるようにしながら言葉を続ける。

「お前にも死相は見えない」

突然、警告するような短い唸りが降ってきた。エマは思わず顔をあげる。獣型のドレークが、パシフィスタの肩をくわえたままエマに視線を落としていた。彼女は一瞬現状を忘れ、凍りついたように立ち尽くしてしまう。
パシフィスタが掲げた左の手から、電子音が響き始めた。

エマが見つめる先で、巨大な体躯が素早く身をよじる。

「うあっ!!」

恐竜の太く筋肉質な長い尾に弾かれ、地面に叩き付けられながら、エマは苦痛の声をあげた。

地面にぶつかった程度では受けた攻撃を相殺できず、彼女は草の上を滑るように転がった。手にしていたサーベルを竿のように地面に突き立て、建物に叩きつけられる前に何とか体勢を立て直す。
パシフィスタが発射したレーザーが、先程彼女が立っていた辺りを焼いた。爆音と煙が広がる。サーベルを鞘に戻しながら、躰の痛みと爆炎でエマは激しくむせた。
本来レーザーの的になっていたはずのホーキンスは、離れたところで服の汚れを払っている。エマよりもうまく逃れたらしい。

彼女が海賊と闘える状態でないのと同様、海賊たちもエマを相手に出来る情勢ではなかった。

「あぶねェ!」

続け様に発射されるレーザーを、アプー、そしてホーキンスが慌てて避けた。
獣型のドレークは大きな牙をパシフィスタの肩に食い込ませ、揺さぶっているが、バランスを崩しきることまでは出来ていない。
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